このブログを始めるにあたってのメッセージです。
2020年大学入試改革の前に
2020年の大学入試改革を前に、さまざまなことが叫ばれはじめています。英語の四技能や共通テストの記述問題…主体性の評価と、e-portfolioの導入、そしてアクティヴラーニング…AIの導入によってなくなっていく職業…
大変な気もしますが、でも、考えてみれば、大学を卒業してしまえば、あるいは社会に出てしまえば、評価の基準は様々で、生き抜いていく力を身につけていかなければいけないのは当然ですね。
ただ、今度は、いったん受験が終わってしまうと、この評価軸は曖昧なものになってしまっていて、「生きる力」なんていう言葉にまとめられ、なんだかよくわからないものになってしまいます。
生きる力って
アルバイト経験や旅行の経験。ともすれば部活動やサークル活動まで。確かに遊びや仕事の経験が生きる力につながるのはわかるけれど、そこまで広くまとめられると、遊んでいない生徒や学生はいないし、「高校や大学という学校の勉強なんて役に立たない」と、拡大解釈されて、わけがわからなくなってしまいます。
さあ、一体、学びとは何なんでしょうか?
すべてが学び、といってしまえば、それまで。このブログでは、そうしたことをひとつひとつ具体化して、「何をすればいいか」「何を身につければいいか」を書いていきたいと思います。
まねびとならひ
「教」という漢字は、子どもをしめつけて「ノブン=ムチ」で追い立てるものですね。「学」もおなじように、子どもをとじこめて、上から押さえつけるような意味。
でも、私たちは日本人。漢字は中国人の考えが示されたもので、わたしたちは日本人として、訓読みを考えるべきです。
「学」は、訓読みで、「まなび」。これは「真似ぶ」という動詞から派生してきたものです。もう一つは、「習う」。こちらは「倣ひ」ですから、どちらも、人のしていることをまねをして、身につけていく、ということです。
つまり、日本では、師匠の技を横について、必死に見よう見まねで身につけていくようなものとして、「学習」がとらえられていたということです。
頑固な師匠は何も語らず、お弟子さんは必死に技を盗む。
そういわれてみると、日本人の技の伝承ってこんなイメージがありますよね。
寺子屋と学校
江戸時代に入っていくと、活字印刷が普及しますから、庶民にも教育=学習がどんどんひろまっていきます。
寺子屋のイメージというのは、大きな机をみんなで囲んでいるようなものですよね。
逆に、明治時代に入って、学校ができてくると、みなさんが知っているような、前に黒板があって、机が黒板の方を向いて…というような学校のスタイルができあがります。
当時のお役人さんは、学校がそういう配置になっているかを確かめてまわったそうです。
つまり、「先生のいっている知識をただしいものとしてとにかく聞いて受け入れる」スタイルになったんです。これが、脈々と続く、教育=学習のスタイル。
逆にいえば、江戸時代までの寺子屋はみんなで語り合いながら、「真似び」「倣う」スタイルだったといえるかもしれません。
現代の教育
西欧列強各国のスタイルを取り入れるならば、学校のスタイルは間違っていませんが、時代はグローバル化を迎え、ひたすら、外国のものを取り入れるだけなく、異文化を前提としたコミュニケーション力や発信力も問われている。となると、最近は消えつつありますが、「アクティヴラーニング」という言葉が生まれてくるわけです。
アクティヴラーニングの言葉のイメージのせいで、ただ話し合わせればよい、ただグループにしてわいわいやればよい、ということが生まれ、この言葉を使わなくなってきたようですが、私は使うべきだと思います。
寺子屋と同様、決して、わいわいやることは悪いことではなく、そして、だからといって目的でもなく、「真似ぶ」ための方法なのですから。
逆に言えば、「知識」を身につける、という目的はあるわけです。
知識を身につけることは目的か
今、知識を身につけるという目的、と書きました。これは目的ではありますが、目的ではありません。
たとえば、私の教えている学校では、アクティヴラーニングをすすめているのですが、結果として、ノートを持たない生徒が生まれてしまいました。
これは、「話し合うこと」が目的となってしまい、身につける「知識」が生徒たちから見えなくなってしまったからです。
「話し合うこと」は手段であり、「知識を身につけること」を目的であると思っていないからです。
でも、「知識を身につけること」が目的であるなら、話し合う必要はないかもしれません。
話し合い、他の人を「真似び」「倣う」ことで、知識を身につける「方法」を意識することが起こるのです。
知識を身につけることを目的とし、そして「真似び」「倣う」からこそ、「知識を身につける方法」を学ぶことになるのです。プロセスといった方が現代的でしょうか。
食べ物を持って旅立つか、狩りの道具と方法を持って旅立つか
学校を飛び出して、社会に出るとき、知識を持つのか、それとも知識を獲得する方法を持っているのか。
これは、こどもが旅だって行くときに、飢えないように少しでも多くの食べ物を持たせるのか、それとも食べ物を獲得する方法を教え、その道具を持たせるのか、ということに似ています。
医学部では六年間まなびますが、その六年間でつめこんだ病に関する知識と治療の方法で、残りの医者としての人生をやっていけるのか。
まなび続ける医療者。卒業してもなお、学ぼうとする姿勢を持ち、学ぶ方法を身につける必要があるのです。
とするならば、学習とは「まなび方」を身につけることではないかと思います。
だとすれば、学び方について、もっと共有していく必要があり、具体的に示す必要がある。
そんな思いで、このブログをはじめます。授業の受け方、計画の立て方、ノートの取り方、さまざまな学習方法、教科ごとの学習のポイント、そして私は国語の教員なので、特に国語については、少し詳しく書いていこうと思います。
保護者の方、教育関係者の方、そして何より、生徒、学生であるみなさんに、少しでも参考になればと思います。