ドラえもんの「暗記パン」に憧れた人は多いと思います。もし、本当に暗記パンがあったら、ぼくらは勉強しなくていいのかということを考えます。
先日、ラジオを聞いていたら、この受験シーズン、ドラえもんの暗記パンに憧れるというような話がありました。もし、暗記パンがあったら、試験は乗り切れるのかということを考えてみたいと思います。
もし、「暗記パン」があったら…究極の暗記パン、コンピュータの登場
ドラえもんの「暗記パン」は、テキストをパンに写して食べると、記憶できるというすぐれもの。誰もが一度は欲しいと思いますよね。試験の前日、入試の前日。
もうどうしようもなくなったら、がんばって食べればいい。まあ、多少の欠点はあるにしても(確か体からでてくるとわすれちゃうんですよね?)、やっぱりあこがれてしまうわけです。
しかし、時代は進みまして、究極の暗記パン、コンピュータというものが登場しました。すでに、記憶容量は人間の脳の限界を、そこいらのパソコンで上回っていますから、ただでさえ、コンピュータさえもっていれば、多くのものがハードディスクの中に入っているわけですが、実際にはネットワークにつなぐことで、人間の記憶容量をはるかに上回るデータにアクセスできるわけですね。
こうした状況から、声高に、「覚える」ことの無意味さが叫ばれるわけです。特に何度か書きましたが、AIの話になってくると、単純作業、この場合、正確に記憶して引き出す、ということになりますが、この作業はコンピュータに勝てるわけがありませんから、「クリエイティビティ」の名のもとに、暗記のような作業がどんどん忌み嫌われる傾向にあるわけです。
不思議なものですね。
昔は、暗記パンがあんなに欲しかったのに、いざ暗記パン(のようなもの)ができあがってみれば、「そんな能力はいらないんだ」っていう風になる。
ドラえもんの生きている未来には、暗記パンがあるわけですから、ある意味で今ぼくらが直面しているような状況がすでにあるのかもしれませんね。
「暗記パン」があれば、本当に試験はできるのか?
しかし、いったんここで考えてみたいのは、暗記パンがあれば、試験は本当にできるのか、ということ。もちろん、これは、暗記パンの性能検査をしてみないと、わからないわけですが、ぼくらには「覚えているのにできない」という経験があることを理解しているからです。
そう思いません?
これ覚えれば大丈夫って言われたから覚えたのにできないってことなかったですか?
特に数学とか物理とか理系科目が多いはずです。文系だって、いくら暗記しても記述問題できるかってことが起こります。歴史とかね。
究極は現代文ですよね。だって、問題にテキストがあるわけですから。
こう考えてみると暗記パンがあるからってどうも満点が取れるわけではなさそうです。
たとえば、手元にテキストがある。でも、テキストがあるだけでは、どこに何が書いてあるかわからないから、答えは探せない。
じゃあ、検索機能がついている。だから調べたら、どこに何があるかはさっとわかることにする。でも、その文や式の意味がわからなければ、まったく同じ問題の再現や穴埋めでないかぎり、問題は解けない。だとすると、暗記パンがあったとしても解けない。
じゃあ、山ほどの問題が全部載っていて、その解法や解答例が全部載っているとする。こうすれば、当たる確率はあがる。ただ意味がわかっていなければ、全く同じ解法の、数字をちょっと変えただけの問題とか、同じ事を聞いているけど、ちょっと聞き方がちがっていて、答えの文末を変えなくちゃいけないとか、そんなことができない。こんなことまで暗記で乗り切るとするなら、もう覚えるものは、本当に無限になる。
そう考えてみると、「暗記パン」ではどうも意味がない、ということがわかってきます。
「暗記」は必要ないのか?~覚えているから、使えるようになる!
つまり、これって学習の大きなポイントなんだということです。
まず第一に、ただ「覚える」のは意味がないということ。どんなに暗記パン的に、つまり、機械的に覚えていたとしても、それをどう使うかとか、式を変形する意味とか、作業の過程とかがわかっていないと、結局似たような問題に対応できず、無限に覚え続けなければいけないということです。
数学の例題を意味もわからず、丸暗記しても意味がないし、古典の文章や英語の文章を、理解せずに、ただひたすら現代語訳や品詞分解を覚えても、実は意味がないということになります。
でも、これは逆に言えば、覚えることに意味がないわけではないということ。だって、辞書や教科書やそういうものが正解として、出てこなかったとすれば、そもそも何もできないわけですから。
つまり、覚えていなくても、使う能力さえあれば解決できるとすれば、辞書でもコンピュータでもデータが入ってさえいればなんとかなるわけで、なんとかならないとすれば、逆にただ使う能力があればいいというわけにはいかなくなります。
ここから導き出される結論はひとつだけ。
要するに、
使えるようになるためには覚えてなければいけない。覚えることによって使えるようになる。でも、覚えたからといって使えるわけではなく、使うことを意識して覚える必要がある
という非常にシンプルな結論です。
陳述記憶と手続き記憶
そう考えていくと、陳述記憶と手続き記憶という分け方も、ボーダーが曖昧であることに思い至ります。
手続き記憶を意識した結果、陳述記憶が身についているのか、陳述記憶を身につけた延長線上で手続き記憶があるのか、それを物の捉え方の違い程度の話で、常にこの二つがないとまずいわけです。
たとえば、どんなに辞書に、
- 大正時代の東北地方の生活
- 宮沢賢治の年表
- 宮沢賢治の作品
が載っていたとしても、それが身についている状態にならないかぎり、この3つを組み合わせて意図を読み取ることはできないわけです。
辞書にあることと、わかっていることは違うわけですね。
そう考えて見ると、学習の本質は、AIが台頭しようがしまいが、昔から一切変わるわけがないことに気づきます。
ある程度覚えるぐらい身についていなければ、使いこなすことはできないし、だからといって、使うことが優先であるわけだから、細かい年号を一言一句間違わずに覚えることが必要なわけではない、ということになります。
だからといって、年号がまったくわからないとすれば、それは本当にわかっているのか、ということが不安になります。おおよその時代とか、順序とかは必ずわかるために必須の条件だからです。
そういえば、クリエイティビティというのは常識の把握でしたよね?常識がわかっているから、他者の常識がわかっているから「ずれ」を生み出すことができる。
他者の常識とは、学ぶしかないものだと思います。
どれだけ、基本的な知識、すなわち常識を自分の身につけるか。その先にこそ、その知識を使う能力が待っているわけですが、「使う」というイメージが無い限り、基本的な知識は、意味のない暗記に堕してしまう可能性があるわけです。
さて、大学入試は、私立大学の定員厳格化によって、少子化なのにそう簡単に大学に行かせないぞ、というような時代になってきました。
この時代の入試方式を考えて見ると、ただスパルタ的に学習時間を増やして覚えるというだけでもだめだし、主体性とか創造性とかいう名のもとに基本的な学習をおろそかにするのもだめな時代です。
でも、冷静に考えてみれば、少子化で、しかも就職活動は売り手市場なのに人材不足というわけのわからない時代です。
つまり、ちゃんと学習できる人材は、いくらでも必要とされる。でも、塾とか省力化とかコストパフォーマンスとかいう言葉の中で、結局どっちかになっている生徒が多い。
「暗記パン」がある時代になってしまったからこそ、暗記パンではのりきれないということを、しっかり意識して、自分なりの工夫で覚えることが求められる気がします。