学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

学習の仕方に困ったことはありませんか?ここでは、「真似び=学び」という形で、さまざまな学習方法へのアドバイスをしていきます。学習の仕方に悩んだら、受験勉強で行き詰まったら、ぜひ訪れてみてください。効果的な学習方法を知って、学び続ける人を目指しましょう!

「学び」と「不要不急」。不要不急の中にこそ、生きていく意味がある。

このブログをはじめて2年あまり、ようやく200記事に到達しました。今日は、「学び」と「不要不急」についてです。

まさか、200記事目にこんなことを書くことになるとは思ってもいませんでした。本来であれば、昨年の大学入試の結果であるとか、共通テストやそのほかの大学入試改革について、書き進めていたことでしょう。

気がつけば、休校はずっと続き、今後学校がどうなっていくのか、特に9月入学の動向も合わせて、学校の授業がどのように運営されていくのか、普通に授業ができるのか、オンライン授業はどうあるべきなのか、あるいは学校の役割とは何なのか、そして、9月入学なんていう、大きな話が「名案」あるいは「唯一の解決策」のようにもてはやされて、大きな変革がどう進んでいくのかという、共通テストなんてかわいい話題ぐらいに感じる状況になってしまいました。

書くべきことはたくさんあるのですが、今日は「不要不急」についてです。

 

緊急事態宣言と「不要不急」

3月の下旬に「外出自粛」が叫ばれ、緊急事態宣言へとつながります。その時のキーワードが「不要不急」でした。

どういうときに外出をしていいんですか?「それが不要不急のものであればステイホームで」

こんなところから、メディアを通じて「不要不急」が発信されていきました。確かに、緊急事態宣言が出された時点においては、多くのショッピングモールなどがお休みになるわけで、そして飲食店の多くも実質テイクアウトのみ、時短というような状況になり、さらには普通の仕事でさえ、「テレワーク」「リモートワーク」となっていくわけで、ある程度仕方のない面がありました。

しかし、どういう理由かはともかく、徐々に感染が収まってくると、この「不要不急」という言葉がどうも引っかかるわけですね。

たとえば、東京都のガイドラインでは、基本的にどうも同じラインのようですし、実際、解除された地域では、この言葉によって訳がわからなくなっていくわけです。

企業や店舗への休業要請や自粛要請が解除されていく。しかし、利用する側は「不要不急」であるなら、自粛すべきであるというような論理ですね。

つまり、やっていいんだけど、使うなと。

もちろん、生活に必要なものなら、不要不急ではないということになるんでしょうけど、じゃあ、娯楽やエンターテイメントや趣味や息抜きや、そういったすべてのものはある意味で「不要不急」じゃないかと。

そうなると、いつまでこれを続けるのか?

もしかして、感染者が0になって、しばらく続いても、「もしかしたら冬になったら感染が始まるので「不要不急」はひかえましょう」なんていう訳のわからない状態が続いていくのではないでしょうか。

 

日常をとりもどす…「経済」でなく、「生活」を。「不要不急」で語り続けるのか?

この間から、「経済か命か」ではなく、「生活か命か」という観点ではないかと書いてきました。

企業にとっても、店を開けてお金を得ていくという「生活」がかかっているわけですが、利用する私たちにとっても「生活」とは何か、ということが問われているんだと思います。

私はパチンコはやりませんから、「パチンコなんて不要不急」といってしまえば、そんなもんかなあと思います。しかし、この「パチンコ」を、音楽や映画やファッションやスポーツや旅行や公園や美術館やグルメや…そういったものに置き換えてみれば、本当にそれらを不要不急で片付けていいのかと思います。

不要不急だから、後回し…。いらなくはないけど、仕方ないよね、という人は本質的には、必要でないのかもしれませんが、それがアイデンティティのように生きている人や、それを楽しみに生きている人にとってはそれは「必要」なものですし、「不急」かもしれませんが、しばらくなくていいものでもありません。

事実、サッカーが無観客でもはじまったことを、否定的にとりあげることはほとんどありませんし。

もちろん、これはリスクとの兼ね合いであることは百も承知しています。しかし、0リスクはありえない。首長の方々も「0リスクはありえない」とは言っています。しかし、責任をとるのが怖いのか、やはり「不要不急」という言葉は残っているようです。それは限りなく0リスクに近い表現に感じてなりません。

インフルエンザだって、院内感染を起こしたら大変なことになりますし、学校だってある程度感染者が出てくれば、学級閉鎖、学年閉鎖、学校閉鎖…となっていきます。そして、現実問題としてみれば、インフルエンザと比べて感染者も死者数も抑えられている。もちろん、ここには医療関係者や自粛というさまざまな要因があるのでしょう。(もしかしたらそうでない可能性もあるわけですが、今、そう考えるのはリスクなのでしょうから。)そうしたところで、それでもなお、「不要不急」というのは、やはり0リスクを求めているのでしょう。

当然、ワクチンの問題と治療薬の問題はあります。だから、その二つがそろうまでは…という理屈も十分わかります。しかし、それなら少なくともその二つがそろえば、元には戻れるはずだし、私が問題提起したいのは、そうしたところで、結果としてなんとかなっているものに対して、「不要不急」という言葉で解決していいのか、ということです。

決して命をないがしろにするわけではありませんが、「生活か命か」です。そんなにみなさんは「不要不急」でないもので生きていけるのでしょうか。

私はどうも、自分にとって必要なものをたなにあげて、自分が「不要」なものは他人に「不要」だと言っている気がしてなりません。他者の他者としての自分、他人に向ける視線は同じように自分に向けると考えてみたときに、少なくとも「不要不急」で語る感染状況ではなくなったと思うんです。

 

学校で教えることは何?「不要不急」で、判断をしていいのか?

さて、学校です。

「不要不急」でいらなくなるものがたくさんあるんでしょう。きっと。

今のところ、要るように言われているのは、いわゆる「勉強」、特に主要教科と、それからたぶん、親が安心して働けるように子供を預けていられる場所、ということのような気がします。

気がついている人は、おそらく学校行事とかクラブ活動とかです。もうちょっと視野が開いてくれば、おそらく友達と過ごす場、というような視点で語ってくれる人もいるかもしれません。

現状でいえば、まず、親が自由になるためにも子供は学校に行かせたい。しかし、もし、ラッシュの電車とか、教室が3密とかいう話になれば、いけばいくほど授業は進みません。

もしかしたら、そうなったときに、やっぱり学習が遅れるから、オンラインの方が、自宅学習の方がむしろ進むよ、というようなことになる可能性もあるでしょう。

もちろん、自宅学習をオンラインであっても課題丸投げみたいにやっていた学校では、学校にいる時間が半分になっても「やらないよりはまし」でしょうが、ちゃんと進めていた学校や生徒にとっては、学校をやればやるほど授業が遅れるというようことも起こりえます。

しかし、これはある意味でおそろしい話で、必要なものを残していったら、学校がいらなくなるということのような気がします。

学校行事やクラブ活動にしたところで、学校以外でそうした場を担保していけばいいだけの話だし、なぜそれを学校という場で、しかも学校の教員がやるのか、という議論がついてまわります。

逆の観点でいえば、「学校で重要なのは、学習ではなく、課外活動である」というような議論です。実際、学校現場では、「授業なんかいらないんだ。学校っていうのはそれ以外のことが重要なんだ」というような発言が平気でされて、授業が全然できなくても、なぜか「いい先生」のように振る舞う、いえ、むしろ授業ができない先生がいい先生で、授業がうまいと、生徒の学力をあげていくと、「生徒の活動を考えていない、学力だけに目を向ける悪い先生」というような視点が一定数存在するんです。

大抵は、本当にいい先生はどっちもできて、片方がかけるというようなケースはたいていどっちもだめなんですけどね…。

戻りますが、要は、学習にせよ、課外の活動にせよ、学校という場はどうして必要なのか、教員はそこでどのような役割をなすのか、ということが、この「不要不急」議論で問われることになってはいるわけです。何が不要で、何が不急なのか。学校行事はいるのか、クラブ活動はいるのか、授業はいるのか、学校という場は必要なのか、ということです。

 

「不要不急」…そんなにみんなは「必要」と「急ぐ」ことだけに価値をおいているのか?

さて、込み入ってきたので少し話を戻します。

私は、学校というのは、「学習」の場であるとは思っています。だから、学習がないなら、学校は必要ないし、学習指導ができない先生は学校にはいらないとさえ思います。学校の先生は、最低限、自分の科目、教科を指導できる状態でなければいけません。

しかし、学習が最も優先順位の高いものであるかといえばそうではない。

それは人それぞれの部分です。

よく生徒には、「仕事」にたとえて説明します。私たち大人は、社会に出て何らかの仕事をしなければいけない。場合によっては(たいてい)お金をかせがなければいけない。それは、生きていくための最低限の条件のようなものであって、欠かせないものです。

だから、働かないなら、趣味もへったくれもないのです。

でも、それが一番であるかは別です。

家族であったり、趣味であったり、本当は自分が大切にすべきものは他にあっていいわけです。ただ、どんなに自分が価値をおいていても、社会を生き抜くためには、仕事を優先せざるを得ないこともあるし、一定程度、仕事に価値をおかざるを得ない。

趣味のために、たまに仕事を休んでいくことは許されても、毎日趣味を優先して、仕事をすっぽかすわけにはいかない、ということです。

今、「不要不急」という言葉を聞くと、こうした趣味の部分とか、大事にしてきた部分がないがしろにされて、「とにかく最低限で生きてください」というように聞こえます。家の中でテレビ見て、映画見て、音楽聴いて、スポーツ観戦して、それでやっていける人はいいんでしょうけど、そうでない価値観はきっと、「不要不急」ではないと片付けられていく気がしてなりません。

念のために…といいながら、誰かの不要不急をおしつけられるのではたまらない。ぼくらは「生活」を取り戻す必要があるんですから。

それは、一定程度のリスクかもしれないけれど、そのリスクがたかまったら、また一定程度の制約がくるだけの話で、そこを恐れていたら一向に「生活」はやってきません。

さて、学校に戻ります。

どんなことに「学校」という場の意味を求めるかは人それぞれかもしれません。しかし、学校が必要であるとするなら、それは、結局は人との出会い、人との切磋琢磨です。ソーシャルディスタンスを本気で考えるなら、学校という場は再開できません。

同じように、スポーツジムや劇場、ライブハウスやカラオケボックス、映画館や娯楽のための多くのものは、「不要不急」という言葉のもとに、悪のように論じられていくのかもしれません。

まだ学校は、親が働いているための、面倒を見る場所、という位置づけがあるから、再開が待ち望まれているだけだいぶましですが、「3密」とか「ソーシャルディスタンス」とか言う以上、実はたいして変わらないでしょうし、「不要不急」という言葉のもとでは、学校が果たして何を生徒に提供できるのか、ということであると思うんですね。

もちろん、「命」というのは最優先ではあると思います。しかし、「命」と比べる「生活」をしっかり考えていくとき、少なくとも感染状況が「不要不急」で語るような状況ではなくなったような気がします。というか、繰り返しになりますが、メディアも含めて自分の都合のいい「不要不急」のラインを作っているような気がしますので、そろそろこの言葉を使うのはやめたらいいのではないかと。それぞれに、感染対策のためにすべきことはありますが、それがされているのなら、不要不急でなくても認めていかないと、私たちは生活のいろどりをなくしていくような気がします。

それこそ、学校は、学力をつければいいのか、それ以外にもすべきことはあるのか、というような話にしていかないと、不要不急という言葉の中で、何か見失っていくような気がしている今日このごろです。

というか、いかに自分が不要不急のものに価値をおいてきたか、気づく今日この頃です。