学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

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読売新聞「国語力が危ない」が始まったけど…

読売新聞の一面に「国語力が危ない」の連載が載りました。今日はちょっとそれについて書きます。

おりしも、ちょうど「読解力急落」というニュースがかけめぐった今日の朝、読売新聞に「国語力があぶない」という連載が始まるようで、国語の共通テストの記述やあるいは今後の話でいえば新指導要領から、はたしてどうなるのかという気持ちもあり、思ったことを書いておこうと思います。

 

国語力があぶない~SNSの普及と国語力の低下は因果関係があるのか?

これから、書くことは基本的に、新聞記事を読んで自分が広げて考えていることなので、新聞記事にとりあげられ意見をあげている方々に反論するようなものではありません。そもそも、新聞記事自体がそういう方々のコメントの一端をとりあげているのは間違いないので、その人の考え方の深いところまでしめされているとは思わないからです。

しいていうなら、新聞記事自体には反論をするのかもしれません。そのコメントを集めてある特定の方向、たとえば「国語力があぶない」ともっていくわけですから。

そういうようなことについて、思うところがあるから書くわけですから、まあ、何かを提起しようとしているのかもしれませんが、個人的にはあまり議論をするようなことではなく、学校の先生や保護者の方に読んでいただき、本当に今、どんなことが必要なのかを考える一端になれば、つまり、こんな意見もあるよ、程度に読んでいただけるとありがたいところです。

さて、いつも思うことですが、こういうときに、すぐSNSとかメールとかそういうのが上がってくるわけですが、本当にそんなことが起こっているんでしょうか。

子ども達が、ぼくらのころになかったそういうツールを使っていることは間違いありません。しかし、じゃあ、なかったぼくらは、代わりに長文の手紙でもやりとりしていたというのでしょうか?

メールやSNSに慣れたから、長文が読めない、書けないなんていうのは幻想でしかありません。

なんなら、私たちのころに比べて、「読む」「書く」という行為は増えたんじゃないでしょうか。だって私たちは、その代わりとして「会って話す」「電話で話す」しかなかったわけですから、しいていうなら「聞く」「話す」ということばかりしていたわけです。だから、むしろ、今の子たちの方が文字を介したコミュニケーションは増えているはずだと思います。

もちろん、私はスマホの普及やYoutubeなどの台頭は、こうした問題に大きく絡んでいるとは思います。しかし、それは他者とのコミュニケーションの作り方のような話であって、メールやSNSそのものの問題ではありません。

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他者とのコミュニケーションがない状況で育てば、たとえば、大学で教授に失礼なメールを送ったり、社会人の一歩目で電話の取り方がわからないような状況も起こるでしょう。

それは国語力の問題でなく、経験の問題です。こういうのを国語力の問題とすることにはまず違和感があります。これは、コミュニケーションの問題。常に仲のいい友達に囲まれ、いえ、正確にいうなら四六時中そういう人間関係の中から抜け出すことができず、「以心伝心」「あうんの呼吸」的な空気を読むコミュニケーションをよしとしてきた人が、まったく電話の取り方も知らず、初対面の人とであうやり方も知らず、突然、大学生になるわけですから。

これは国語力の低下ではなく、他者とのコミュニケーションの力の問題です。

 

記述の力と読解力の関係

では、もう少し、論文的なものを考えてみましょう。ゼミでのプレゼンとか論文とかそういう話も記事の中では出てきましたが、そうなってくればさすがに、「国語力」の低下といえるのではないか、とそういう風に話がすすめられるのでしょうから。

私自身のことでいえば、やはり、昔と比べたくなります。本当に私たちは昔、文章を書かせられたのでしょうか。今、私より上の世代のことは私にはわかりませんが、バブル崩壊期に学生時代をすごした身からすると、そんなに文章を書かされた覚えはありません。

今の生徒の方が、「論文」「プレゼンテーション」「発表」など、さまざまな活動が担保されていると思うからです。いわゆるアクティヴラーニングというやつですね。念のために書いておくと、私はこの方向は賛成です。ただし、世間で言っているアクティヴラーニングと同じとは思えませんが。

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いずれにせよ、アクティブラーニングが進んでいる以上、昔と比べて、むしろ書くこと、まとめること、発表することは増えているはずです。仮に、もし、このことで国語力が低下しているとするなら、その方向自体が「国語力の低下」を招いているのではないか、と考えることもできます。

もちろん、こんな話は因果関係でもなんでもありませんから、ただ時代の流れが、書けない生徒を作っただけで、アクティブラーニング型の授業がいけないという立証にはまったくなりません。

しかし、印象として、現代の生徒は昔より、多くの発表などの表現活動をしている。たとえば、私が大学受験をしたとき、小論文なんていうのは予備校ではじめて教えてもらったものですが、今や高校で指導するのが当たり前になっているのではないでしょうか。教室での発表などの表現活動はきっと増えているはずで、それで国語力が低下するのはなぜでしょうか。

おりしも、今日のニュースで、「読解力急落」のニュースもやっていました。読解力が国際順位を落としたわけですね。この読解力、テレビのニュースで取り上げていたのは、まさに「大学教授のブログを読んで情報をよみとる」というような問題ですから、むしろ現代的で、こういう問題が出ている以上、SNSやメールをやっている世代ならできそうな気もします。要するに、読解力も表現力も両方落ちているってことなんでしょうか。

私は実は、これは「他者性」の問題なのではないかと思っています。つまり、本来コミュニケーションというのは、他者の意見をまずしっかりおさえ、そして自分の意見を述べる。何が同じで、何が異なり、どう対立を乗り越えるのか考えていく。でも、そういう経験がありとあらゆるところでなくなっていくわけですね。

たとえば、日常生活では、家の電話がなくなり、いつまでもSNSで仲間内に縛り付けられ、テレビという他者さえなくなりつつある。

アクティブラーニング型の授業では、他人の意見をたいしてきかなくとも、自分の意見をとりあえず表現すれば逃げられる。調べ学習をすれば、適当に答えを見つけて考えることなく写すことができる。逆にいえば、そういうアクティブラーニング授業が多ければ、読解力もなくなるし、表現力もなくなるかもしれません。あ、もちろん、他者からつっこまれることがなく、つまり、持ち時間で自分をうまく見せる表現力をつけているのかもしれません。質問には答えられない表現力、というようなことですね。

アクティブラーニング型授業に反対すると、今度は読解に力を入れることになるんですが、それは今度は旧来型の、ある意味で知識詰め込み的なテクニックに走ります。国語では、要約をすることはかなりメジャーになって、要約は必死にさせます。でも、結果として、要約は完璧にできるけど、内容はひとつもわからない生徒というのを量産しています。

もちろん、みんなを否定しているわけではありません。きっと一生懸命がんばっていらっしゃる、さまざまな実践をしている方もいらっしゃることでしょう。でも、本当に国語力が下がっているなら、読解力がさがっているなら、おそらくそれはうまくいっていいないということではないかと思います。もちろん、自分も含めて。

私自身は、まず読解力だと思います。しかも、それは文字、本であるべき。他者の意見をきちんと理解しなければいけません。それが文字であるなら、「理解しようとする姿勢」がなければ、読み取れませんから、「誰かがわかりやすく説明してよ」的なことを可能にするメディアでは読解力は育ちません。

私自身は要約は、読んだら本を閉じて行います。なぜなら、頭に入れて「わかる」ことが大事だからです。一橋の要約問題なんかはこういう力がないとできません。これも練習。「わからなくても写せばいい」「大事そうなところを書き抜けばいい」のではなく、「筆者の伝えたいことを自分の言葉で説明する」ことが重要だからです。

続いて、「指示に合わせて答えること」が重要です。これができないと議論にならないからです。「読んだよ。それはそれとして、ぼくはね…」という意見では議論になりません。自分の主張は、まずは他者の意見に合わせなければいけないわけです。

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だから、基本的に読解力と表現力は裏表で、切り離せません。というか、切り離している時点で、確かに国語力は低下するしかないと思うんですね。

 

国語力や記述力は、特殊技能として鍛えられるのか?

もうひとつ、記事の中で気になるのは、今や国語力は「特殊技能」であるという表現。まあ、ない以上、なんとかしなくちゃいけないという危機感は共有しているところですが、この「特殊技能」という表現はいかがなものかと。

おそらく、こういう言葉を持ち出して、専門科目としての「国語表現」とか「日本語運用力」とか「論理力」とかが出てくるわけですよね。これもフォローしておきますが、こういう取り組み自体は私は賛成です。非常に興味深いものが多いし、やる意味はあると思います。

では、何が問題だと思っているかというと、「特殊能力」とかいう言葉を持ち出して、他のせいにしてません?ということ。

そもそも「読解力」とかいっている時点で、これが国語力なんですよね。

でも私は「読解力」というのは「わかる」力だと思っていて、そうなると、知識は不可欠。だから、知識を入れる授業も必要だと思っています。何が言いたいかというと、文章を読むためには、前提となる常識というか最低限の知識が必要で、それがなければ読めるわけがない。逆にいえば、国語力とか読解力とかと無縁で育ってきて、もっというと、大学入試や高校の現代文の成績が悪かったとしても、専門知識を持っていてわかろうとして読めばたいてい、その専門分野の話はわかるし、逆に国語が出来ても専門知識がかける分野の文章読まされれば意味不明になる。

だとすると、社会とか理科とか数学とかから、読解力、表現力、倫理構成力などを切り離して、どっかで身につけてもらうようなやり方ははたして正しいのか?

いらないとは言ってなくて、重要だからやるのはいいけど、各科目でというか、みんなでやらないと、国語力はトータルとして下がるのではないか、ということです。

英語で四技能、というのが叫ばれていますよね。国語をやっている自分からすると、すごくいいことなんだけど、これから英語の先生の質がより問われる自体になりますよね。だって、今までは、向こうの文章や文化を理解すればよかったわけだから、英語の先生は英語ができればよかったわけです。でも、もし、本当にスピーキングとか、ライティングとかが本格的になっていけば、それは中身になる。そうなれば、読解力、つまり、相手の言うことがわからなくちゃいけなくなる。つまり、知識ですよね。まあ、これは百歩譲ってリーディングと変わらないとしても、スピーキングやライティングはそれをいかに踏まえて書くかっていう話で、「文法的に正しければ、通じれば何でもいい」ではなくて、「論点にそって、説得力のあることを書く」つまり「中身」が問題になっていくわけですよね。

知識と表現は、こういう風にリンクしているわけで、これが今後どうなるのか、もしかしたら、どの教科も、平気でこういう部分を、「国語力」に丸投げして誰かにやってもらおうとするんじゃないかと思うと、暗澹たる気持ちになります。

共通テスト、国語記述問題の話

今日、もうひとつのニュースが、「記述問題見送りの申し入れ」でした。

うがった見方をすると、記述を残したい勢力が国語力低下の危機をあおったような気さえします。もはや何も信じられない。

記述問題には、採点とか民間委託とかいろんな問題がありますから、もはや、どうしようが勝手にしてくれという心境。意見を書くことさえばかばかしい。どうでもいい。こっちはこっちでやるから、という気持ちです。

でもね、はっきり書きますけど、子ども達は書けない。それはやっぱり、塾や学校や、国語教育が入試に合わせているからで、彼らがやっていることは読むことでも書くことでもない。

彼らがやっているのは、「間違い探し」。よほどの優秀な国語の先生でも、こういう言葉を使っているケースがたくさんあります。

作者がどう言っているかは関係ない。答えの根拠を探して、選択肢が間違っているかどうか、本文と照合するんだよ、なんて平気で書いています。

実生活では、「他者」がどんどん消えて、以心伝心的コミュニケーションがまかりとおる。学校では、他人とは関係なく、自分が思ったことを話すことが評価されいく。国語以外の科目は、知識に傾注して、国語が表現力を担う。小論文の書き方なるものが流通して、本文を無視して、指示を無視して、その型で書くことを推奨する。で、国語自体の試験は間違い探しをひたすらやる。

これ、どうなんでしょうね…。

共通テストの記述に意味があるとは思いませんけど、今のセンター試験が素晴らしいとはとても思えません。50万人が受けて、しかもマークでやって、著作権配慮という条件の中ですごい試験ができているとは思いますが、センターだけで入試が行われるとしたらそれに向かって準備が行われるとしたら恐ろしい話です。

だって、センターって、間違い探しでも解けちゃうから。だから、そういう指導がまかり通るわけで。

というわけで、かなり愚痴めいた形で今日は終わります。