子育てシリーズの2019年第一回は、「字」についてです。自分の子どもが3歳になりまして、ついに「字」に興味を覚え出しました。というわけで、子どもと「字」について考えます。
うちの子どもを中心とした「早期教育」のシリーズです。ついこの間、3歳の誕生日を迎えました。その直前ぐらいから、字に興味を覚えて、というか、字を読もうという意欲が急激に出てきました。
というわけで、子どもと「字」の認識について考えてみます。
3歳目前から、「字」を読む練習をはじめた!
「字」を読むということに関しては、実はかなり早めから取り組んでいました。絵本を読み聞かせることも、ある程度「字」の存在を意識させていたし、カルタやあいうえおの本を買ったという話もありましたね。
お風呂場には、1歳になる前から「あいうえお」表を貼ったりして、あいうえおを聞かせていました。
新聞を読んでいる姿を見せるために、新聞はきちんととっています。値上げは痛いなあ…。
とはいえ、ですね。字を読むということは、正直、あんまり興味はありませんでした。言葉の獲得は、
聞く→話す→読む→書く
であることは間違いないと思っていたので、基本的に「字」というものの存在は教えたいと思っていましたが、「読む」ということはかなり後でもいいんじゃないかと思っていたんですね。
意識としては、できるだけ多くの語彙を獲得させることが最優先で、実際に「字」を読むことは練習させるというほどのことはしなかったんですね。
要するに、絵本だとか、新聞だとか、あいうえお表だとかによって、「字を読む」ということは認識していたけれど、自分自身が字を読むということにはあまり興味がなかったように思います。
ところが、3歳目前にして突然「字」に興味を持って、「字を読む」ということをはじめようとしているんです。
字を読めるようになっていく過程
当然、あいうえお表や「すいぞくかんのあいうえお」などによって、「字」を読むという訓練がなかったわけではありません。特に自分の名前のひらがなは一番最初に覚えて、「『し』があった!」みたいなことはやっていました。
で、じゃあ、実際、どのように「字」を覚えていたかといえば、おそらくですが、「絵」のようなものであることと、さらに「その字を含むイメージ」と一緒に覚えていたような気がします。
「すいぞくかんのあいうえお」の場合だと、「あしたあしかにあいにいこうの「あ」」みたいな感じ。あいうえお表だと「みかんの「み」」みたいな感じ。
だから、最初のうちの彼女は、
- まず、一緒に載っている絵や写真を見る
- それが、何であるかを認識する
- その最初の文字が、その字であろうと考える
というような作業をしている気がするんですね。
それを繰り返しているうちに、徐々に字を覚えたというようなことである気がします。
ひらがなと漢字の差があるのか?
そう考えてみると、彼女にとって、「字」は「絵」に近い記号である、ということが言えるような気がします。そのような状況であるとするなら、
「まずはひらがなから」ということに意味があるのかどうかがかなりあやしくなっています。
たとえば、大人のぼくらは、ア行、カ行、サ行に、aiueoという母音を加えて、つまり10×5の掛け算の表の中で、あいうえおを認識しているので、まずはあいうえおがあるんじゃないかって考えますが、実際の彼女を見ていると、そういう論理的な認識はまったくないようです。
だから「あいうえお・かきくけこ…」というのも、要はただの単語の羅列、意味のない呪文のようなものみたいです。実際、「まいうれお」みたいなわけのわからない読み方も多かった気がします。
そうなんです。字というよりは、単語。そして、それが字をあらわす…という認識の繰り返しで徐々に字を覚えていく。もう一度書きますが、字は絵に近い、とすれば、ひらがなにこだわる必要はたぶんないんですね。
と考えると、漢字、見せて大丈夫なんじゃないか、ということに気が付いてきます。
最近、はまっているのが、四字熟語カードです。こんなの、やるつもりなかったんですけど、二番目の「早期教育」問題で、結局、ベビーKUMONに入れることになったんです。上はドラキッズです。そのあたりの顛末は次のところに…
ドラキッズは気にいっております。学習という面では、もちろんもうちょっとと思うところもなきにしもあらず、ですが、そもそも原点にかえって、「非認知的能力だ」と考えれば、むしろさまざまな活動が入ってくるのは理想的です。というわけで、おねえちゃんはドラキッズ継続することにしました。
一方、弟は、年末生まれのおねえちゃんに対して、5月生まれですから、1歳上の段階で、同じことをやるようなイメージになります。
ここをいろいろ検討した結果、ちょっと縁のあったベビーKUMONにしてみることにしました。
いや、これはこれで勉強になります。ノウハウとか仕組みとかがよくわかる。いろいろと問題点も見えたりしてね。
その話はさておき、ベビーKUMONはカスタマイズ型です。その子その子が自分で課題を選択し、どんどん進めていくイメージ。
というわけで、いきなり、四字熟語カードが教材として配られまして、まだ1歳にならない弟のための教材は、ほとんどおねえちゃんが使って遊んでいる状態になっているわけです。もちろん、0歳の子がしゃべらないからといって、やることに意味がないかといえば、そんなことはなくて、単語を与えていくのは意味があるわけですから、やる意味はあるだろうけど、やっぱりね、順番というものがね…
そもそもあんまり勉強にしたくないんですよね。いやなものやらせる感覚にしたくないっていうのが、私のポリシー。学びは真似びで、遊びですからね。
まあ、さておき、お姉ちゃんです。
これがまたよく覚える。不思議なことでもなんでもないですよね、冷静に考えれば。彼女はクイズと一緒です。「これな~に?」「むがむちゅう」みたいなことですから。ただの遊び。パズルやって魚の名前覚えるのと同じ。
「これな~に」「きりんみの」みたいなこと。
だって、カードには確かに四字熟語が大きく書いてありますが、それと同時に、その熟語を表す絵も載っているわけで。
そうなれば、彼女自身が、字と同時に絵もみて、そして、単語を発する…。「すいぞくかんのあいうえお」となんら変わりがない。
だとすると、これを繰り返していくうちに、おそらく、字だけを見ても読めるようになるんじゃないかと。ひらがながそうであったように。
そうすると、やっぱり、漢字見せた方がいいんだろうな、ってあらためて思いました。
実際、彼女の持ち物には、スペースが許す限り、名前は、漢字・ひらがな併記でつけています。たぶん、その方が認識できるだろうって。
おみやげの名前を刺繍してくれるTシャツ買ってきたときも、無理言って、漢字の上に、ふりがなのようにひらがなも縫ってもらったり…。
たぶん、絵のように見ながら、単語と照合するっていう作業だとするなら、ひらがなも漢字も区別なく、ただ「字」として認識するんじゃないかなってそんな気がしていて、漢字も気にしないで見せた方が、おそらく学習にはいいんだろうなと感じました。
「さ」と「ち」の違いについて
で、これは奥さんが気が付いたことなんですが、うちの子どもは、「さ」と「ち」を間違うんです。
正確にいうと、「ち」は「ち」で「さ」にはならないんですが、「さ」は「さ」だったり、「ち」だったりするんですね。
不思議ですよね。
似てるからといってしまえば、それまでですが、だったら「ち」が「さ」になってもよくないですか?
これ、実は、彼女に聞いたところ、「さ」は、離れているんだそうです。くっついてるのは「ち」なんだそうです。
わかります?実際に、ぼくらが書くと、「さ」は「十」に「一」ですよね?離すじゃないですか?
でも、活字にはつながっているのがあると。
言われてみると、あいうえお系の教材は、ちゃんと離した字で印刷しているんですね。くっついているのは、デザインのようになっている絵本です。
なるほどなあ。こういうところで、字を見分けているんだなあ、と勉強になりました。教材作りのプロは、ちゃんと知っているから、学習教材はできるだけ「書く」ときの書体で印刷しているんですが、絵本などのデザイン重視のものは、くっついて書くんですね。
そう考えてみると、こどもにとって字っていうのは、とても難しいものなんだなって思います。わけのわからない記号みたいなもので、その中で、なんとなく自分なりの着眼点をもって、読もうとしているわけですね。
「字」を読むことをどうやって練習していくか?
というわけで、3歳になった現在、彼女自身は「字」を認識したことは間違いないです。絵とは違う「字」ですね。
それを読みたいという認識もある。だから、あいうえお表のようなものを眺めたり、字を探したりする作業は楽しいみたいです。
ところが、実際に絵本を読む、というような作業にはまだ興味がないようです。
一文字、一文字の集積が単語になり、文になる…というような認識はまだないのかもしれません。
彼女にとっては、まだ、
全体としての単語=全体としての文字の塊
という感じなんでしょう。だからこそ、四字熟語だってなんとなく読めちゃう。塊と絵としての塊を照合させるわけだから。
そういう作業の延長線上で、字が読めるようになってきたとするなら、ここは無理をせず、漢字も含めて、まだ単語とか、文とかっていう塊をあげていた方がいいのかなと感じています。
というわけで、まだ当分、読み聞かせモードが続きそうです。ていうか、たぶん、書くっていう段階にいかないかぎり、なかなか字そのものを読むっていうところにはいかないのかなっていう気がします。
読んでいるようにみえて、全体的な絵としてのイメージと、覚えた文を照合する作業のような…。その延長線上、その集積の上に、どうも一文字ずつの「字」というものがあるように私には見えています。