夏休みといえば、宿題。夏休みに、宿題をなんとかしないと、休み明けに怒られたりしますし、昔は8月31日でしたけど、とにかく夏休み最後の日に家族総出で宿題したりするイメージがありますので、これにどう向かいあうかというお話です。
楽しい夏休みがやってくると、同時に宿題が出されてくるわけですね。
しかし、この「宿題」というのが、厄介な存在です。私たちは宿題とどう向き合う必要があるのか?
今日はそんなことを考えてみたいと思います。
- 「宿題」は一番効率の悪いもの~「宿題」の定義が問題。
- 「宿題」がないとやらない?学習の5段階。
- この5段階と宿題の関係、そして大学入試のレベル
- 「宿題」が出ている。宿題をしっかりやって、自分に生かすなら、いつやる?
「宿題」は一番効率の悪いもの~「宿題」の定義が問題。
そもそも私は、宿題反対派です。
したがって、宿題は出しません。意味がないからです。
しかし、この場合の「宿題」というのは何を指すかが問題になります。ここでいう、意味のない宿題とは、「やらなければならない」ということに加えて、「やらなければ怒られる」というような強制力が入るもの、という意味になります。
強制力が入るということは、やることが義務づけられるということです。やることが義務づけられる上に、しかもそれが決まった場所をやらなければいけないとするなら、非常に効率が悪い、ということになります。
私自身は、教員として、宿題を出していないつもりは実はありません。でも、「やらなければならない」かつ「やらないと怒られる」というものが宿題だとするなら、あまり出していないと思います。あくまでも、「あまり」で、「まったく」ではありませんが…。
実際には、宿題にはいくつかのレベルがあります。
- やることが明示されていて、提出やチェックがあり、やっていないと一定のペナルティを受ける。
- やることが明示されていて、提出やチェックもあるが、やっていなかったとしても、ペナルティがない。あるいは、やらない人が多いので、やらなくても平気。
- やることが明示されているが、提出やチェックはない。ただし、やっていないと授業を受けるのに相応の支障が出る。
- やることが明示されていて、提出やチェックはない。やっていなかったとしても特に授業を受けるのに問題がなく、特にメリットもない。
- やることが明示されていて、提出やチェックはないが、学習方法であり、やることによって、学力がついていく。
- やることが明示されていないが、自分でやることを決めるようにチェックされている。たとえば、学習時間の管理ややったことの記録やその管理など。
- やることが明示されていないが、学力をつけていくために、どういうことをするべきかが、示されている。
などなど。
そもそも「宿題」を議論するとなると、まず、話している人が、どのレベルで話しているのかがわかりませんから、そこを整理しないといけない。
その上で、宿題に意味があるのか、という話になっていきます。
いわゆる夏休みの宿題は、多くの場合、やることが決まっていて、提出があり、出さないと一定のペナルティがある、ということだと思います。
それが、意味のあるものなのか、意味がないのか、というのは生徒のレベルによって違いますし、何が宿題になっているかによっても違います。
まあ、でも、一般的な宿題をベースに話を始めていきましょう。
「宿題」がないとやらない?学習の5段階。
当然、「宿題」が必要であるという意見の中心は、「うちの子は言わないとやらない」とか、「勉強には強制力が必要」とか、「レベルが高ければともかくある程度に達するまでは導きが必要」とか、そういうことだと思います。話を整理するためにも、いるかいらないかではなく、勉強に対する対応を5段階で考えてみたいと思います。
言われたこともやらない、指示されたこともできないレベル
まずは、指示されたこともできない、というレベルが考えられます。当然低学年のころなどは、「できればさぼりたい」「なんとかしてさぼりたい」と考える可能性も高いですし、そうなってくると、ただ「先生がいうから」ではなく、「絶対にやらないといけない」というような条件が必要になってきてしまうわけですね。
そうなると、「罰」が必須になってくるわけです。
(そもそも私はこれが嫌いなんですが、これを書き出すと反論が来てしまいそうなので、先に進みます。)
言われたことを強制力があれば、やることができるレベル
そうなると、ある一定の強制力があれば、「やる」というレベルに到達します。親が宿題を喜ぶのもここにあります。子どもをやらせる先生がいい先生。たくさん宿題出して、ちゃんと子どもがやるのがいい教育、ということにつながっていきます。
要は、「他律」ですね。
他人の目があれば、やることができる、というのがこのレベルになります。
言われたことを強制力がなくても、やることができるレベル
もう一段階段を上がると、「自律」、つまり「自分で自分を律すること」ができるようになります。
つまり、提出がなくても、チェックがなくても、「やりなさい」と言われたことはできるレベルですね。宿題がほしい、というレベルの場合、そもそも提出がなくてもいいか、と言われれば、「それじゃあやるわけがない」ということになっていそうですから、実はこのレベルにも到達していないのではないかと思います。
このレベルでは、「学習方法を先生が指示する」ということがあれば、「やる」ということになります。もうちょっと言うと、「言われたことはやる」ということが実現できるのがこのレベル。
ひとつ前では、「先生が学習方法を指示しても、なんとかしてさぼりたいから、正しい方法でさえやらない」ということになります。
自分なりに課題を見つけて取り組むが、なかなか成果があがらないレベル
この先のレベルは「自立」です。つまり、自分の弱点を把握し、自分なりに学習を進めることが必要になります。
受験勉強が本来、ここになりますが、「そんなことできるわけないよ」ということになると、まずは塾などが必要になりますし、人によっては「厳しい塾」が必要になります。前者が「自律」で、後者が「他律」ですね。
ただ、実際には、弱点は人によって違いますから、弱点を埋めるためにはカスタマイズが必要です。それを塾の先生にやってもらうことはできなくはないですが、たいていはマスでの指導になりますから、同じ学習方法をやっていても改善はのぞめません。自分なりに分析して、自分なりに工夫する意識が必要になります。
しかし、これはとても難しいですから、「自分なりにがんばって工夫しているけれど、なかなか成果が出ない」というレベルが存在します。
自分なりに課題を見つけ、自分の状況を改善できるレベル
このレベルを通り抜けた先に、「改善」があるわけです。PDCAクルクル回っちゃってます、みたいなレベルです。
あんまりPDCAっていう言い方は好きではありません。
分析して、対策を考え、やってみる。
そして、うまく行く。次の目標、次の課題に取り組む、ということですね。本当にうまくいっているなら、それ以上の改善はなく、ただ次の目標が生まれる、ということもあるかもしれません。
まあ、こういう5段階が想定されます。
この5段階と宿題の関係、そして大学入試のレベル
このように考えてみたときに、宿題は、最初の2段階ぐらいの生徒のためには、必要であることがわかります。もちろん、小学生低学年の子どもが、「自分で課題を見つけて改善しようね」って言ったところでなかなか難しいことがわかります。でも、社会人になったとするなら、最初のレベルではかなり問題がありそうですね。
だから、発達段階に合わせて、要求するレベルが変わることは間違いありません。
でも、小さいころには、百歩譲って強制力が必要だとしても、
- フローチャートにしたがって分析する宿題を出す。
- 分析したら、いくつかの課題の中からやるべき課題を選ばせる。
- 自分の目標を決めさせ、目標に合わせて、違う宿題を出す。
- 少しできる生徒には自分なりの課題を自由に決めさせる。
などを強制力のある宿題にする手はありますよね。まして、中学生、高校生になってくれば、こうしたことを訓練しない限りできるようにはならないと思うんですね。
ここで議論している宿題は、おそらく、レベルとしては一番低い「他律」のレベルの宿題です。もちろん、それが意味がないとは言わないまでも、この「他律」のままでいいのか?というのは、考えるべき問題点です。
仮に、「小学生ではできない」が本当だとしても、だとすれば、「いつから次のレベルに行くのか」「いつになったら次のレベルの課題ができるようになるのか」という問題が出て来ます。
そう考えてみると、いつになっても「他律」を要求するような気がするのですね。
で、大学受験ベースで考えると、
- 日東駒専…言われたことは必ずやる。
- MARCH…わからないことをつぶす=自分で考えるけれど、必ずしもうまくいかない。
- 早慶…自分で余計なことをどんどん進める。
というのが、基本ラインです。下手をすると、他律のラインでは日東駒専も厳しいかもしれません。おそらく、「自律」が日東駒専ラインで、「先生が怖くないならさぼろう」では、大学入試はほとんどうまくいきません。
いずれにしても、「宿題がないとやらない」では困ることになります。考えてみれば、受験が迫ってきた高校3年生の夏休みに「宿題がないとやらないから宿題をいっぱい出してほしい」という人がいたら、ちょっとおかしいですよね。だとすると、本来的には、2年生や1年生でも、当然、宿題じゃないとやらないでは困るし、なんとか脱却しなければいけないんですね。
「宿題」が出ている。宿題をしっかりやって、自分に生かすなら、いつやる?
とはいえ、現実問題として、多くの学校では宿題が出ています。自分の課題にあった宿題が出るケースもあれば、まったくそうでないケースもあるでしょう。でも、せっかくやるなら、少しでも身になるように取り組むことが大事になります。
では、どのように取り組むべきでしょうか。
その「宿題」が出された意味を考える
まず第一にすべきことは、その宿題がどういう意味づけなのかを考えてみることです。
- ここまでの範囲の復習。教科書の復習。
- 学校の授業では不足している実践演習。ここまでの範囲の実践と応用
- 2学期に取り組みべきことの予習。
- 全体的な基礎範囲の復習。
- 読書や作文など、教養的な取り組み。
もちろん、その他のことも考えられます。
- 自分にとっては当たり前で非常に簡単な課題。
- 自分にとっては難しすぎてとても時間がかかり、場合によっては時間をかけてもなかなかできない課題。
こういう分け方で考えることもできますね。
いずれにしても、取り組む以上は、少しでも意味があるように取り組むのがいいと思います。
この場合の、「意味」はたいていの場合、「試験」と思うといいのではないでしょうか。「宿題」が意味がないというのは、たいていの場合、「できる」からです。でもそれだって「確認」しなければいけません。「できると思っていたけど、本当はできない」って最悪です。だから、まずは「試験」「確認」として使う。
「できない」とすれば、そこにいたるために、自分の課題が見つかります。本当に力をつけるなら、宿題だけではだめで、その宿題ができるようになるための、自分の課題に取り組む必要があるわけです。
ある意味では、「レベルの高すぎる宿題」であっても、そこにいたるためのプロセスを作り出せれば、意味のある宿題になります。
まあ、この段階で、「言わないとやらない」人には、だいぶできない課題になってしまいますけど…。
学習習慣をつけていく~夏休みで勉強を忘れないようにする
さて、宿題をいつやるか問題というのもありますね。
まじめな人が、宿題を早々に終わらせて、あとはさっと遊ぶ…そんな話を聞いたことがあるかもしれません。
しかし、40日間のブランクを作らないために、宿題があるとするなら、さっと終わってブランクを作る…というのはあまりいい手ではありませんね。
たとえば、宿題が出ていて、休み明けに確認テストがあるなんてこともあるでしょう。その場合、宿題をまとめてやるとするなら、夏休みの最初にやるのと、最後にやるのではどちらがいいでしょうか。
そうなんですね。最初にやるのは、意味がないです。最後の方が点がとれるに決まっている。でも、最後にためておくと、終わらなかったら大変。終わったとしても、できないところを復習する時間がない。
こう考えてくるとわかると思いますが、結局は、宿題は強制、とはじまった回ですが、意味のあるものにするためには自主性が必要になるわけです。計画的に勉強をして、2学期が始まる前までに、できなかったところを復習できれば、宿題が意味のあるものになっていくわけです。
最初にやるのでは、2学期の準備にならない。最後にやるのでは、終わらないかもしれないし、復習する余裕もなくなる。
ということは、夏休みの中盤ぐらいまでに計画的に終わらせて、そして、最後に復習する余裕を作る。
「優等生かよ」という突っ込みが出そうな結論になっていきます。そこまでは無理であるにしても、毎日少しずつ取り組むのが結局は理想的ということなんでしょう。
復習とか、余計なことはおいておくにしても、少しずつ計画的にやることで、毎日の学習習慣を作り、ブランクをなくす…。
それが夏休みの宿題の大きな意味にはなると思います。なので、結局、宿題が意味のあるものになるためには、自主性とか計画性とかが必要で、「強制」ではない。だったら、最初から自分で計画を立てるような宿題を出した方が、自分でやることを選ぶような宿題の方がいいよね、と私は思ったりしています。
というか、「学び」は「真似び」で主体性ですから。それを伸ばすことが大事。
というわけで、宿題は厄介だと思いますが、ぜひ、意味のあるように向き合いましょう。