学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

学習の仕方に困ったことはありませんか?ここでは、「真似び=学び」という形で、さまざまな学習方法へのアドバイスをしていきます。学習の仕方に悩んだら、受験勉強で行き詰まったら、ぜひ訪れてみてください。効果的な学習方法を知って、学び続ける人を目指しましょう!

親の責任と子どもの自立~親はどこまで子どもの責任を負うのか?地域と社会との関わり

今日は、親の責任と子どもの自立、そして、それを支えるべき地域と社会との関わりについての話です。

こういう話を書くのは、ここのところ、こういうことを考えさせる事件が続いたからです。個々の事件について、コメントする意図はありません。そこから自分が考えをめぐらせた、親の責任と子どもの自立についての話。当然、それは地域と社会の話になっていきます。

川崎とそして、元官僚の事件があったからこそ書いていることは間違いないのですが、主眼は、親としてのふるまいや子育てをしていく自分たちがどういう事態に直面していくのか、という話であって、それぞれの事件について論じているわけではない、ということを理解していただけると助かります。

 

親は責任をとらなければいけないのか?

こういう事件が起こっている中で、すごく感じるのは「親の責任」についての議論です。極端なものでは、元官僚のある種の正当化も起こっていると思います。もちろん、こうした事件にいたる背景は、当事者でしかわからないこともありますし、そこまで追い詰められる事情もあったかもしれないし、あるいはどんなことがあっても起こしてはならないものであるのかもしれません。

しかし、自分が書きたいのは、この事件そのものの正当性でなく、この事件を元として議論されていく、親としてのふるまいの話です。

もし、この事件が「正当化」されるとするなら(繰り返しますが、事件自体に本来あるはずの背景を無視しての話です。)、それは「親」に「責任がある」と皆が考えていることになります。

こうした事件を引き起こすような子育てをした責任、そして、新たな事件を起こさないようにする責任。

そういうことのような気がします。

いったん、個別の事件を忘れて、イメージしてください。親は、本当に成人している子どもの引き起こしたことに責任を持つべきなのでしょうか。

親の側が、責任を感じることは仕方のないことのような気がします。私は、でも、それを社会が強制するとすれば、ちょっと違うのではないか…という気がするのです。

むしろ、責任を感じる親に「ちがうよ、それはあなたの責任ではなく、本人の問題だし、責任があるとするなら、あなたをふくめたみんなの責任だよ」と言えるような社会であるべきではないか、と思うんです。

今回のことはあまりに衝撃的ですから、なかなか個別の事件を離れることはできないかもしれません。でも、犯罪だけでなく、家庭内の問題とか、私たちは様々な問題を起こします。

そういったことの全てに、親としての責任が多かれ少なかれ問われる社会なのかな、ということを考えるわけです。

たとえば、だんなさんやおくさんに何かあったとすれば、それは「この人がこうなったのは親の育て方だ」というようなものが背景にある、というようなことです。

もちろん、犯罪でなければ、責任といっても、大きなものではないかもしれませんが、では、ぼくらが事件や事故を起こさずにいる、というのは、本当に親の育て方と因果関係があるのでしょうか。なんだか、結果論のような気がして仕方がないんです。

もちろん、私は「環境」というものが、要素として大きいと思っています。でも、その「環境」は、親だけの力でどうすることもできないものです。確かに「家庭」というものは、その環境の中でもとても大きな要素であることは間違いないでしょう。でも、だからといって、その後の成人した大人の、ありとあらゆることが、大きな要素として「家庭」とか「幼少の教育」というものに戻されていくと思うと、現在、子育てをしている身としては、自信など持てるはずもなく、不安になっていく。まして、それを社会が手助けするのでなく、「親の責任」といってくるとするなら、なんだか孤立している気さえしてきます。

 

児童虐待の問題と行政への期待~地域の関わり

ついこの間までは、児童虐待で騒いでいました。

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もちろん、これも個別の事案を持ち出さないで、一般論として読んでほしいのですが、「家庭の方針」や「しつけ」という名目で、こうした問題は起こっているような気がしてなりません。

あの事件が正当なしつけだ、といっているわけではなく、今回の元官僚の事件が正当化されたり、あるいはそういうような事件を起こさないような教育をするかが親の責任だ、と言われた場合、親の「しつけ」「教育」はより要求されていることだ、ということです。そして、それが成人した大人にまで適用されるとすれば、いったいいつまで、親は子どもに介入していくことになるのだろうと。

そして、「家庭内においても、体罰禁止」ということになったとき、一定の反対意見が巻き起こりました。それは、まさに今回のような事案を、親の責任、家庭の責任としてとらえる風潮があり、そういう風潮があるからこそ、ある種の「しつけ」は必要であるという、親や家庭の意見が作られ、またそのぐらいやれ、という地域社会の声になるのでしょう。

もちろん、その「しつけ」が虐待になってはいけない。そうなってくると、次に社会が求めるのは、行政への期待です。その家庭というものを見張る、あるいは助けるというものが必要となります。それが行政ということですね。

もちろん、行政がこういう体制を整えることが悪いわけではありません。ただ、問題は、そういうことを家庭と行政におしつけて、地域としての責任を考える必要はないのか、ということです。

こういう問題、児童虐待にせよ、成人による犯罪や不祥事にせよ、関わった人々がいるはずで、そういう人たちは何かできることはなかったのか、という視点はあるのかもしれませんが、はっきりと語られることはないように感じます。

止める、気づける、防ぐ、というようなことを、親、家庭や行政におしつけますが、実は関わった多くの人々も、同じような「責任」があったのではないか、というようなことです。

もちろん、ここでいう責任とは、別に代償をはらえとか、謝罪せよ、とかそういうことではありません。でも、そうであるなら、親や家庭だって、同じではないかと私自身は感じています。

 

「親の責任」とすること自体が、自立を妨げ、さまざまな問題を起こしているのではないか?

たぶん、私が書いていることは、何かの問題の解決を示唆しているものではありません。おそらく、起こったことはどうしようもない、というようなあきらめを書いているのに近いのかもしれません。

それでも、こうしたことを書いているのは、今回の川崎にせよ、元官僚にせよ、家庭環境や親の責任として扱えば、扱うほど、実は、親は追い込まれていき、そのことは子どもの教育にとって、あまり良い方には行かないのではないかということです。

何度も書きますが、今回の事案について論じているわけではなく、親の過度においつめられたプレッシャーや、親自身が子どもを期待する方向へ導こうとすることが、子どもの自立と遠く離れていることは間違いないと思いますし、それ自信が子どもを追い込むことになるのではないかと思うわけです。

親の責任といえばいうほど、親は子どもをコントロールし、コントロールできない子どもにいらだち、おちこみ、そのプレッシャーを感じて育つ子どもに悪影響を与える…というような循環に入っていくのではないか。

考えて見れば、子どもは親と別の人格で、だから、子どもは親を離れて、好きなように生きなければいけないし、自立して生計を営まなければいけないわけです。

そして、それぞれが家庭以外の、さまざまな人で出会いながら関係を作って生きていく。

それが社会ですね。

現代の日本は、個人主義がどんどん進んでいきます。だから、「よくないこと」を見ても、見て見ぬふりが基本。関わらないことが基本。その代償のように、告発することは大好きになってしまいました。誰かになんとかしてもらうわけですね。

ネット炎上のようなものも、「なんとかしてくれ」っていう正義感のような気がします。最近のテレビニュースを見ていて思うんですが、視聴者がとった映像をもとに、バカッター的なものや、危険運転的なものや、そういうものが、トップニュースの扱いで流れますよね。

たぶん、この「なんとかしてくれ」っていう正義感が、視聴者の側にも共有されてきたというか、ネットという匿名の告発で共有する正義感を、テレビに持ち込まないとテレビがもたないというか、いずれにせよ、今の社会の雰囲気が、政治とか経済とか国際関係とかそういう問題以上に、身近なところにある問題を「なんとかしてくれ」っていう価値観で満たされているから起こっている現象のような気がします。

とりあげられたさまざまな映像が、どうでもいいといっているわけではなく、少なくともトップニュースで扱うような内容ではないだろう、テレビで扱って告発するような内容ではないだろう、もっと他に大きな問題があるだろう、というようなことです。

告発がいけないのではなく、「なんとかしてくれ」ではなく、個々人が「政治参加」というと大げさですが、関わっていく姿勢が必要なのではないかと思うわけです。

電車で泣いた子どもを親の責任にしてみたり、百歩譲ってマナーが悪いとしても、それを注意せずに、親の責任として投げ出すのは違うんじゃないかと。もちろん、そうであるなら、親の側も子どもが注意されるのを受け入れないといけないし、自分の子どもでないとしても、同じように関わっていく姿勢が必要になるわけですが。

そして、こういうことを書けば、「いや、そんなことしたらどうなるかわからないのが今の日本でしょ!」って言われると思うんですけど、実際にそう思います。だから、問題なんだと。

だから、たぶん、家庭と親は問題を抱え込んで、孤立していくしかない。そのことはまた、問題を深刻化していく。深刻化していけば、行政に対策を求めるようになる。それはまた、行政を追い込み、そして、個人は安全地帯にいながら、より孤立した社会が形成されていく…。

たぶん、こんなことになるんだろうなと。

では、どうすればいいのか?具体的な対策は浮かびません。個人主義はもっともっと強まり、でもこの日本では、その責任を親に負わせる方向に行くだろう…。

だから、ボランティアのようなものをもっともっと広げながら、昔のような共同体意識とは別の、個人が形成している社会ならではの、ボランティアが根付くのを待つしかないんだろうなと。

それでも、親の責任は問われ続けるのかもしれない。でも、少なくとも芸能人の不祥事とかそういうものに親の責任なんて問わなくていいし、今回のような事件において、親が子どもの人生を決定する権利があるかのような話はありえないと思うし、そういうところに追い込んだものがあるとすれば、それが社会の風潮なんじゃないかと思うわけです。

もちろん、親が子どもの人生を決定することがないように、子どもも親の人生を決定することはできないわけですが。そして、いくら自立して生きたいと願っても、人生において、子どもの時期であったり、介護を必要とする時期であったり、あるいは病気や怪我などにおいて、他者の助けなしに生きられない時期は当然存在するわけです。

そこを私たちはどうやって、助け合うのか。行政とか、個人の自由という名のもとに、女性が自主的にそれをこなしていくという図式から、脱却していかないと、どうすることもできなくなっていきます。

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家庭や親の責任とはいっても、私たちはそれぞれ別の人生を歩むことが当然になっています。親の責任とか家庭環境とかいっても、最後まで子が面倒をみるとか、そういう状況ではなくなっていきますし、今回の事件も、親の責任や家庭の責任が問われながらも、両方とも現代社会の中では、かなり面倒をみようとした方なのではないかというのが、皮肉に感じます。

最後の砦は家族だ、最後は家族しかない、という事実は、最後は家族に投げ出すしかないということだし、もし家族から投げ出されたり、家族を失う状況になれば、本当の最後は「孤独」になっていくしかない。周りには、人がいっぱい生きていて関係を築けるはずなのに。「孤独死」というのは、そういう意味でも、特別な環境の人に訪れるものでなく、もはやこの社会を生きる全ての人に訪れるものになったのだと思います。

というわけで、何か解決を書いたわけではなく、ただ、大変だなあ、と思いつつ、親として途方に暮れるだけです。

でも、親として、子どもが自立できるように努力し、でも、当然、他者としての関わりは失わず、地域にも貢献をしなくちゃいけないよな、というそんな結論にいたるだけ。

親になるって大変だなあ、と思います。でも、そんなことをつぶやくと、「そんな覚悟もなしに親になるな、迷惑だから」と書かれそうで怖いですね。個人の社会って、結局、他者と関わらない方が幸せのように感じてしまうのが、なおのこと不幸な気がしています。特に最近。