秋になって、さまざまな場面で進路を考えることも多くなっていると思います。受験校選び、学部選び、文理選択などなど…今日は進路を決めることについて考えてみたいと思います。
さまざまな意味で、私たちは進路を考えなければいけません。それこそ、小さい頃から、就職してからさえも。
そういうことを考えたとき、子どもに対して、どうやって「進路」を考えさせればいいのか、意外と難しい問題だと思いませんか?今日はそんなことを考えます。
- 将来の夢や目標が簡単に見つかるのか?
- 就職したら、学習より経験が役立つって本当か?
- 過去・現在の自分と未来の自分
- 進路選択を先延ばしするためには、「全て」をやること。
- 「職業」は「夢」や「目標」ではない。「夢」や「目標」は「自分がどう社会に貢献するか、どう実現するか」
- 進路を考えるイメージは「もっと知らない世界がある=拡散するベクトル」と「今の自分にできることを考える=目標に収束するベクトル」を両方持つこと。
将来の夢や目標が簡単に見つかるのか?
文理選択や学部学科選び、場合によっては学校選びをふくめて、進路選択をする際には、「将来の夢」や「将来の目標」を考えることが求められます。将来の夢や目標を持つ大切さが大前提になっているわけですが、本当にそれが進路指導なのでしょうか。
まずは、このあたりを疑ってみましょう。
小さいころの知識で、正しい将来の選択ができるのか?
「小さいころの夢を実現した」なんていうことを聞くと、すごいな、と思ったりするものですが、そんなことは可能なのでしょうか。
可能も何も実現する人はいるのだから、可能に決まっている…
いえ、そういうことではなくて、「職業」についている人が小さいころにその職業につくことをイメージできたのか(「していたか」ではなく、イメージしようとすればできたか)ということです。
小さいころの夢を実現した人って「医者」とか「パイロット」とか「弁護士」とか「先生」とかっていう「〇〇士」的な職業か、「アイドル」とか「プロスポーツ選手」とか「音楽家」とかっていう、ちょっと才能的なそういう職業かだと思うんです。あるいは、内容問わず「社長」とかっていうようなこととか。
何が言いたいか、わかりますか?小さいころに職業を全部知っているわけがなく、だから、知らない職業を夢として持つわけがない、ということです。広告代理店とか商社マンとか、あるいは流通とかメーカーとか、そんな言葉で小学生は語るわけがないんですね。
だから、まず、「小さいころの夢」なんていうことが、正しくないことがわかってきます。
じゃあ、高校生ぐらいになってきたらどうか?いや、やっぱりたいして変わらないんじゃないでしょうか。もちろん、卒業して就職する子も多くなってきますから、具体的なイメージは持つ確率が高くなるでしょう。でも、大学進学を前提と考えたとき、就職活動で人気になるような業種や職種、というかそもそも業種とか職種とかっていう言葉を、高校生のころに知っている人はやはり少ないんじゃないのか…
そう考えると、その乏しい知識で、将来の進路を決定していくことに少なからず問題を感じます。
まじめに進路指導を飲み込む生徒ほど、「資格職」をイメージする。そして、その他大勢は「サラリーマン」「会社員」としてくくられていく…
これではあまり建設的ではありませんね。
その「職業」は、将来になくなっている。
そもそも職業は、どんどん変わるものです。今は「AI」の話の中で、職業の消滅がなかば脅迫のように語られています。
嘘ではありませんが、かなりあやしいものですね。いえ、なくならいっていってないです。いつの世だって、そんなことは起こる。
新見南吉の「おじいさんのランプ」って話では、「ランプ」が電気にとって代わられる。しょうがないですよね。それが時代です。そうなれば、おじいさんの仕事はなくなるんです。
カメラがフィルムだったって知ってます?デジタルカメラに変われば、なくならないまでも、業態は変化します。
携帯電話がこれだけ普及すれば、インターネットがこれだけ普及すれば、消えていくものはたくさんあるわけです。カメラもそうだし、公衆電話もテレホンカードもそう。ポケベルも消えれば、下手すればテレビとPCまで、大きな影響があるかもしれません。
ファミコンやプレステなどのテレビゲームは全盛。でもいまや、スマホ上のゲームが主流。
ラジカセでようやく録音ができるようになってウォークマンが出たら、CDができて、MDができて、そして今やダウンロードですよ。
ビデオとともにLDなんてのもありましたね。あっという間にDVDで、それさえもハードディスクでネットの世界じゃないですか。
私はバブル崩壊後の就職世代。
必死に入った銀行や証券会社はあっという間につぶれたり、合併したり。
人気だった流通は、ダイエーとイトーヨーカドー。あっという間に、コンビニ業界が上に立ちました。
そもそも、PCはまっくろな画面でプログラミングして動かすもの。IT業界、なんて言葉さえありませんでした。携帯電話もなければ、スマホもないし、「アプリ」の開発どころか、そのもとさえなかったわけです。
テレビゲームを作りたい、と思っていた人が、テレビゲームでないゲームを作るのが時代の移り変わり。
いまやないものばっかりです。
冷静に考えてみれば、そもそも、小さいころにはなかったものがあふれるのが未来ですから、そのときの職業を理想とすることにはちょっとした無理があるともいえるんです。
新しいものを作り出す人が必要とされている。
そう考えてみると、それを誰が作り出してきたか、ですね。
もちろん、みんながみんな何かを作り出しているわけではなくて、乗っかった人もたくさんいるんだとは思いますが、こうした昔なかったすべてのモノ・コト・サービスは、誰かが考えて生み出して、それに合わせてそういう仕事ができてきたわけですね。
ありとあらゆる職場や会社は、そういう人を望んでいます。
学校の先生にしたって、「時代にあった新しい教育」を待ち望んでいるわけですね。新しいツール、新しい社会状況…
決して、今ある仕事を今まで通りしたい人がほしいわけではありません。
アップルに入って、今存在する製品を作りたいです…って要らないですよね?せめて製品改良のだいたんな提言ぐらいしてくれないと。あるいは、まったくないサービスやモノを提案してくれないと…
もし、これを読んでいるのが、大学生であるなら、就活で何をしゃべるのかって、このぐらい尖った人でないと、本当に魅力的には思われないと思いますよ。
就職したら、学習より経験が役立つって本当か?
さて、このように考えてみると、
目標や夢に向かって、その実現に向けて努力する
という当然のスタイルがだいぶあやしいものになってきます。だって、そもそも、その目標がなくなる可能性もあるわけだし、目標が設定できない可能性もあるわけですから。
そこに入り込んでくるのが、
目標や夢なんてなくてもいい。まずは、いろんな経験を積んでいくことが大事。旅行であるとか、バイトであるとか、サークル活動とか…。そういう経験が将来役に立つんだよ
という、下手をすると遊ぶことの肯定、ふまじめさの肯定にもなりかねない発言ですね。実際「大学(高校)の勉強なんてどうでもいいんだ。それ以外で何をしてきたかが大事」なんていうのは、大学受験でも就職活動でも、実際の担当者からのアドバイスでも平気でされていることのような気がします。
今度はそれを疑いましょう。
目標がない人がなぜ、何かを作り出せるのか?
感覚として、部活動や文化祭、アルバイトや海外旅行などの多様な経験が人間形成に役に立つというところまではわかります。でも、ちょっと気になるのは、そういった「勉強以外のことが大事だ」的な発想が、「勉強をしていない自分こそ大学や就職でうまくいく」とでもいうような発想になることです。
そうですよね?そもそも、「勉強以外のことも大切だ」というのは十分わかる発言ですが、「勉強についてどうでもいい」というのはすごい発言です。
企業の採用担当者は本当にそんなことを思っているのかが問題です。
百歩譲って、「勉強はいらない」と仮定しましょう。
では、「勉強以外のこと」について、図る尺度はないのでしょうか。わかります?なんとなく、みんな「勉強以外のことならがんばった」ってなっているけど、部活動やっていた子は、スポーツや成績や役割や取り組み方や、そういったものを問わないで、一律に頑張りましたって評価されるのか、ということです。
そんなわけがない。
評価する基準、つまり「こういう人がほしい」という部分があるはずです。それが企業の求めるものに合わせる形でいいのか、企業の求める形にとらわれず、自分らしさでいくのか、というのは微妙な違いはあるにせよ、なにかしらの「目的意識」とか「自分らしさ」みたいなものが問われてくるのはなんとなくわかると思います。
旅行や遊びの場合、「目的意識」なんてものは確かにありません。でも、目的意識をもって遊ぶわけではなくても、結果として遊んだだけなら、何も残らないのではないか。逆に言うなら、ただ遊んでも、そこから何かを得たり、積み重ねたりする人は、その人の「目的意識」がどこかにあるからではないかと思うんですね。
「目標」をもっているからこそ、多様な経験から何かがつかめていく。
ここでいう、「目的意識」というものは、「職業」ではないかもしれませんね。いや、「こうしたい」というようなものでさえ、ないかもしれません。でも、自分が進みたい方向や興味関心のあることが漠然とでもあるとすれば、そこにひっかかるような形で学びはあるのではないかと思います。
その漠然とした方向性、目標の感覚によって、遊びの経験でさえ、何かしらの学びにつながっていくわけです。
確かに、いろいろな経験をしていくことは重要です。でも、そんなことを言えば、人間は誰でもいろいろな経験をしているものです。
寝続けることも、オタク的な世界にはまることも、ゲームをやり続けることも、ファッションにめざめることも、おいしいものを食べることも…。
人は必ず何かをしている。それは、その人ならではのかけがえのない経験のはずで、必ず生きる経験のはずなんです。
でも、それがモノになっていく人とそうでない人がいる。全然関係ないことのはずなのに、何かに生きていく人とそうでない人がいる。
一言でいえば、体験を消費して、消え去っていくもののように接していくか、その体験が自分の中に積み重なっていくかのように、経験しているかの違いでしょう。
その「ひっかかり」が「目標」であり、「目的意識」だと私は思います。ここでいう目的意識とは、もしかしたら、「先生になる」というようなことではありません。そういう目的意識だと、ゲームをすることや旅行することは、先生になるという目的意識からは零れ落ちるような気がするからです。
たぶん、もっと大きな「自分は何をなしとげたいか」「どんな自分になりたいか」というような目的意識だと思うんです。
「遊ぶこと」と「何でもやること」の違い。
そう考えていくと、さっきの「消費」か「積み重ね」かという話は、要は、「すべての経験が自分を作るんだ」と自覚しながら経験するか、その場その場で、遊びとして消費するかの違いのようなものです。
それが具体的に、何かの役には立たないかもしれないけれど、「自分」の経験になるんだ、と自覚しながら体験するのか、なんとなくその時間を消費するのか、という違い。遊んでいる時でさえ、何かを学ぶ人なのか、本当にその時間が過ぎたら何をしていたか忘れてしまうような形で過ごすのか…。
誤解のないように書きますね。もちろん、そういうことを意識してやっている人もいると思いますが、たいていのすごい人たちは、それを無意識でやっています。無意識でどうして積み重なっていくのか…。
それが「目的意識」で「目標」だと思うんですね。これは、「成長」のベクトルです。あるいは「変化」のベクトルです。
何か志向しているということは、自分が変わるということです。それは自分に何かが足りない、ということです。どんな形であれ、それを持っているなら、積み重なっていく経験になりうるけれど、「現在の私」がベストで変わらないものであるとするなら、経験は消費されていきます。
なんとなく「目的意識」「目標」のイメージがわかりました?となると、その目標は現在の自分と連続していないといけないんです。
過去・現在の自分と未来の自分
観点を変えます。
「目的意識」があっても、この「目的」が現在の自分と分断されていては、正しい進路選択はできません。
現在の自己がさまざまな体験によって、目的に到達するんですね。
この意識が次に大切。「現在の自己が未来の自分を作る」んです。
ある職業が仮にゴールだとして(実際にはだめですよ。職業はゴールではないです)、その職業につく自分は、現在の自分の連続性の上にあるんですね。ジャンプはできない。何かができるようになる自分は、現在の自分が何かをしていたから、それができるようになっていくわけです。
未来の自分は、現在の自分が作るわけです。
そして、現在の自分は過去の自分の経験によってできている。
だから、まず、未来の自分を考えるためには、過去の自分を考えることが大事です。自分が楽しかったこと、好きなこと、やってみたいこと、あこがれたこと…。そして、今の自分が何をやろうとして、何を避けているのか…。
そこまで考えた延長線上に未来の自分はあります。
過去や現在の自分とかけ離れた未来の自分を作りたい?だったら、自分を変える必要がありますね。自分がいやだと避けているものに取り組む必要があるかもしれない。過去の自分なら逃げたものにこそ、未来の自分がかくれているかもしれない。
だから、進路を考えるためには、過去の自分と向き合うこと。そして現在の自分と向き合うこと。
これは必須。
くだらないお説教に聞こえるかもしれません。苦手科目をほったらかして、「本当は好き」とか「やればできる」というのは違う、ということ。いますぐ克服できなくてもいいから、今すぐ向き合うこと。そして、今と連続した未来に「克服する」と決意すること。
これがなければ、その夢は、ただの現実逃避です。
できるようになる未来のあなたは、できていない現在のあなたなんですから。
進路選択を先延ばしするためには、「全て」をやること。
とはいっても、小さいときほど、進路を決めることは難しいこと。この選択を先延ばしするためには、「全部をやっておくこと」です。
- 苦手科目は作らない。
- やりたくないことでもやってみる。
- 発表とか研究とかにも取り組んでみる。
- 部活動や学校行事も大事かも…
- 趣味でもおもしろがってみる。
目標が決まっていれば、もしかしたら、やらなくていいこともできるかもしれませんね。
たとえば、大学受験で私立文系が、数学や物理をやらなくてすむように。理系に進んだ生徒が、古典をやらなくていいように。
でも、いろんな可能性をまだ残しておきたいなら、全部をやるしかありません。だから、学校のこともそうでないことも、受験で使う科目もそうでない科目も、成績がつくものもそうでないものも、全部とりあえず一生懸命やってみないといけない。
そうでないと、切り捨てたひとつひとつが、過去のあなた、現在のあなたとなって、未来の方向性をいつの間にか決めてしまっているんですね。
いくらでもやり直しはできる。でもリスクを背負う。
しかし、現実問題として、すべてを選択肢にいれることは不可能です。だから、少しずつ「選択」をして、しぼっていくわけです。
逆にいえば、ひとつひとつ選択をする=何かを切り捨てる、ということは、せばめていくということです。
となると、あとで「違った。やっぱりこうしたい」と思ってもできないような気がします。
いえ、そんなことはありません。やり直せばいいだけです。
すごくわかりやすくいえば、高校3年間失敗したと思うなら、少なくとも3年かければ、修正できます。中高6年失敗したと思うなら、6年かければ修正できます。
たぶん、もう少し短くて大丈夫だと思いますが…
結構勇気がいりますが、このぐらいのことで、のちの人生が輝くならやる価値はあります。
「このぐらいのこと」と思えないなら、これは「リスク」です。その「リスク」があなたにとって、どのくらいのものか意識しておく必要があるんです。この感覚は人によって違うから。
「やりたいことをやれば浪人するぐらい仕方ない」と思う人もいれば、「浪人は絶対だめ」という人もいます。
文理選択だって、2年間ぐらいの話です。最悪2浪すれば、なんでも大丈夫。でも、それはだめって思うなら、最初から慎重に決めるしかないんですね。
できるだけ負担を減らすなら、早く正しい選択をするしかない。
そうなんです。方向が決まれば、絞れる。
だから、負担を減らしたいと思う人、できるだけ効率よくやりたいと思う人は、早く正しい選択をするしかない。
いやなことはやりたくない。
できるだけ楽をしたい。
こんなことばかり考えている人は、早く正しい選択をするしかないんですね。
進路選択の悩みは、
「まだ決められない。決めたくない。だけど、できるだけ楽をしたい」ということが多いんです。
どっちかが捨てられれば、決断を先延ばしにできるか、あるいは楽ができます。
この両方がある人は選択に困る。
でも、覚えておいてくださいね。
人生はいつか必ず選択しなければいけない。どんなにふたつとりたくても必ずひとつになるんです。
大学受験で全部合格しても、進むのはひとつ。そのひとつを、受かったあと決めるか、受ける段階で決めるか、進路選択の段階で決めるか、その程度のことなんです。
決めてしまえば、失敗はありうる。文理分けで失敗する可能性もありますが、進学してから失敗に気づくこともある。
どこで決めても同じです。
だから、ただ時間を引き延ばしても意味はなく、引き延ばした時間で、しっかりと考えるべきことを考えなければ。
だから、一番やってはいけないのは、意味もなく決定を先延ばし、ろくに進路のことを考えず、先送りすること。
過去の自分と現在の自分を分析する。未来の自分と現在の自分をつなげて、そこに向かう覚悟を決める。それはつまり、未来に向けて現在の自分が変わる。そのための時間として、使わなければ意味がない。要は、動け、ということです。
「職業」は「夢」や「目標」ではない。「夢」や「目標」は「自分がどう社会に貢献するか、どう実現するか」
さて、もう少し、夢や目標の話をしておきましょう。
職業は、夢や目標ではありません。
だから、職業が決まっても、夢や目標があることにはなりません。職業がきまってなくても、夢や目標を持つことはできます。
そもそも職業は、今、あるものとは限らないんですから。
職業が夢にならないというのは、職業についたら、夢は実現したのか、と考えればすぐわかります。先生になって夢実現!て生徒に失礼です。企業に入社して夢がかないました、って困った人です。プロ野球選手になって終わる選手は何か夢を実現したのでしょうか。
逆に言うなら、何か、もっと大きい目標があるとするなら、手段はどうでもよくないですか?
たとえば「金持ちになりたい」とします。あまり、よい夢とは思いませんが…。もし本当にこれだけなら、手段はどうでもいいわけですよね?
- 金持ちになりたい
- 有名になりたい
- すごいって言われたい
- 人から認められたい
何かひとつだけが目標だとゆがんだ人のようにさえ、見えますが、
- 人前で話すことが得意。
- 物作りをしたい。
- 世界で活躍したい。
- 困った人を助けたい。
- スポーツに関わりたい。
というような要素が関わってくれば、全く問題ないですね。
さらに、
- 英語が得意。
- 数学が好き。
- 歴史が得意。
- 音楽が得意。
などの要素が入ってくれば、もっと絞れます。
逆にいえば、こういう感覚をもっていれば、時代が変わっても、職業がなくなっても、自分に何かが起こっても、何かやれることが見つかっていくわけです。
こういう意味で言えば、目標とは、夢とは、
「どのように社会に貢献するか」ということが漠然とあれば十分で、それに過去や現在の自分の特性や特徴を考えれば、なんとなく方向性が見えてくるはず。
もし、現在の自分と興味のある分野にギャップがあるなら、一歩でも二歩でも今すぐ、何かを始めてみるべきです。
すごくわかりやすく言うなら、漫画家になるとか言ってみるなら、まず描けと。小説家になりたいなら、まず書けと。シンガーソングライターになるなら、まずやってみろと。声優になりたいなら、演劇ぐらいはじめてみろ、とそういうことだと私は思います。
その一歩が今踏み出せないなら、あきらめた方がいいと思います。
進路を考えるイメージは「もっと知らない世界がある=拡散するベクトル」と「今の自分にできることを考える=目標に収束するベクトル」を両方持つこと。
というわけで、こうした漠然とした目標意識を持ったら、あとはいろいろなことにまだまだチャレンジすべきです。
ひとつの目標に向かう意識。
そして、いろいろなことに興味を広げていく意識。
その両方が必要なんです。
確かに大人は、このどちらが大切か、どちらかを語る気がします。
前者が大事だという人は、そうやって成功したから。でも、その人を育てたのは、趣味や興味や全てのことで、そんなことは意識してこないから、「目標の大切さ」を説くんですね。
後者が大事だという人は、目標を意識してこなくても何かに出会ったか、あるいは目標を持つことは当然だと思っているから。でも、その人がその目標に出会ったのは、漠然とした何か意識があったからに他ならないんです。
だから、両方。当然です。
先生や学校のいうことを信じて、目標だけをもっていると、実は何かが起こったら対応できません。世の中は変わる。あなたも変わる。何かが変わったとき、はたして対応できますか?
逆に、目標意識がないと、どんなにいい経験をしても、それが自分の中に積み重なりません。だから、目標意識も大切。
というわけで、漠然とした話かもしれませんが、こんなことを考えながら、自分の進路に向き合ってみてください。
学校選び、文理選択、学科選択、科目選択、大学選び、就職…。
実は大人になって、年をとった今でも、この図は同じです。就職しても、まだまだ次の何かが動き続けているんですね。
私もがんばることにします。