学びのコラムはあまりみなさんには興味がないかもしれませんが、教員の労働環境と部活動の問題です。問題点と解決の手段を2回にわたって考えます。今日はその1です。
受験生にとっては、あまり興味がないかもしれませんが、教員の労働環境が大きな問題となっています。「なっています」というよりは、もともと大問題なんだけれど、それが当たり前だと思っていたし、それを上回るようなやりがいもあったわけで、問題となっていなかっただけの話で、「コンプライアンス」とか「成果主義」とか「コストパフォーマンス」とか、そんな言葉が入ってくると教員の職場はとてもやっていられないようなことになるわけです。今日はその問題点と解決策を考えてみたいと思います。
「ブラック部活」って何?
教員は部活動をもたされます。私立の場合は、拒否することもできず、自動的に顧問が割り振られたりします。公立の場合は、あくまでも自主的に部活動を面倒みなければいけない状況になっています。ここが恐ろしいところで、教員であるならば、持つのが当たり前、正しい姿とばかりに、断れない風潮があるようです。
もちろん、断ることもできるようですが、そういう人が出て来ると、より一人に対する負担は増します。
私の知り合いの公立の先生は、すごくいい人だったので、部活動を持った上に、部活がない種目の引率や役員などをいくつも受け持っていたようです。が、若くしてお亡くなりになってしまいました…。因果関係は知りませんし、たぶん、その他にもたくさんのお仕事をされていたようですから…。単純にその因果関係を知らない、聞いていないだけで、過労死認定がされたのかとかそういうことはまったくわかりません。
でも、近くでこういう経験をすると、やっぱり放っておけるようなことではないと思います。
部活動は、学校の教育活動の中で大きな位置を占め続けていて、それを教員がほぼボランティアで見なければいけなくなる。専門でやっていた種目だって大変なのに、その競技も知らず、朝から晩まで、そして日曜日まで面倒をみる。
しかもこれが無給とくればブラック以外何物でもないわけです。
もちろん、朝から晩まで、日曜祭日なし、となれば、生徒にとっても十分ブラックだとは思います。
でも、ここについては、たとえば、オリンピックを目指すような選手が、スイミングスクールや体操教室、卓球教室、小学生の野球やサッカーなど、本人の希望で、平日の夜間や日曜日にやることがいけないわけではないですから、ここではいったん問題からはずします。そうしないと議論がぐちゃぐちゃになりますからね。
部活動の問題点と利点
というわけで、まずは教員の労働環境という面にしぼって、問題を考えてみたいと思います。つまり、教員が部活動に賛成したり、反対したりするという視点を中心に議論を組み立ててみます。
問題点
- 朝・夜・休日などとにかく時間をとられる。
- しかも十分なペイがない。
- 専門外の種目など、自分の意思でなく押しつけられる。
- そのことによって、本来の業務、特に教科指導がいい加減になる。
- 生徒も本来、学習を優先すべきである。
利点
- 生徒がしたい活動をフォローしたい。
- 部活動によって学校が活性化したり、学校に来るのが楽しくなる生徒がいたりする。
- こうした活動によって生徒が成長する。
- 学校がこれを受け持たない場合、地域にそれ以外の受け皿がない。
- したがって、なくなることで生徒が非行に走るなどの問題が出ないとも限らない。
- 部活動は生徒指導上、非常に有効である。
というようなところではないでしょうか?
まったく議論がかみ合わないことがわかります。もちろん、中には、「部活動によって生徒がダメになった!」というようなことをおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、それはそういうケースもあるというだけで、正しく運営されていれば防げる可能性もありますし、もし、防げないとしても、地域スポーツやスポーツ以外の課外活動でもそうしたことは起こりますから、これを議論に入れると、「スポーツの廃止」というような結論になりますから、その意義が認められるなら、やっぱり「意義を認める」でいいのだと思います。
逆に言えば、スポーツ推薦の生徒が授業を免除されているような実態があるとすれば、問題点の「学業優先」もわかりますが、生徒が授業をまじめに受け、一定の成績をとっているとすれば、放課後の時間にスポーツをやろうが、勉強をしようが、それは個人の問題と片づけなければいけません。
こうして、この議論が難しくなっている理由がわかります。
「部活動が有益であることは多少なりともわかる。なんとか協力してやりたい。しかし、そういう言葉のもと、本来の業務を犠牲にし、家庭を犠牲にし、自分の趣味の時間を犠牲にし、どうしてしかも無給でそれを担わなければいけないのか?」
というようなことなのだと思います。
学校の中で、教員はどう考えているか?
しかし、これも教員の個性を考えると、すごく細分化されます。
- 部活動こそが教員になった動機で、ほかの業務はやりたくない教員。
- 学習指導などの業務も、部活動の指導もやりたい教員。
- 学習指導などの業務に加えて、部活動などの指導もやりたくはないが大切だと思い、教員がやらなければいけないと考える教員。
- 学習指導などの業務に加えて、部活動などの指導が大切であることはわかるが、自分はやりたくないし、誰かにやってほしいと思っている教員。
- 学習指導などの業務が重要であると考えており、部活動などはその妨げになると考えている教員。
- 基本的に働きたくない教員。
これでもかなりおおざっぱな分け方です。たとえば1番なんかは問題に見えますが、どんなに部活動がやりたくてほかの業務が後付でも、しっかりやってさえくれれば問題ないわけですね。もちろん、中にはほかの業務をまともにやらない人もいるでしょうから、ここは難しい。私も含めて、ですが、自分ではしっかりやっているつもりでも、周りからは「あいつは出張ばっかりで仕事をしていない!」と思われることもあるでしょうから。
そう考えてみると、自分がどこに属するかだってあやしいんですが、こういう細かい立場がいっぱいあるわけです。
視点を整理すると、
- 自分が指導したいか、したくないか
- 学校の中にあるべきかいなか
- 学校の教員がやるべきかどうか
- そもそもそういう活動に価値があると思っているかどうか
という感じになるわけです。
たとえば、
「学校の中で」「学校の教員である」「自分が」「指導したい」
「学校の中には必要で」「教員でない誰かが」「指導してほしい」
「学校の中にはいらないけど」「そういう場は必要なので」「誰かが」「指導する場を作ってほしい」
みたいなことですが、
「そもそも勉強の邪魔だから」「廃止してほしい」
なんて人が出て来ると、最後の人からすれば、「いやいやそれは極端だよ、じゃあやるしかないか…」みたいなことに巻き込まれるわけです。
で、ここで重要なのが、本来、こういう人が出ないといけないということ。
「学校の中にある必要はないけど」「自分が」「別の場所で指導したい」
議論が常にとまるのは、指導したい人が、常に部活動が必要だと主張することです。
指導ができない人は、「だからいやだ。外に持っていってほしい」「指導はしたくないけど、学校には必要」「学校には必要だから指導は仕方ない」と細分化されて、部活動に歩み寄る人もいるのに、指導をしたい人は、部活動を手放さないんです。
これ、問題だと思いません?
部活動がなくなったら、指導ができない?いえ、そんなことはないですよ。勝手に指導をすればいいんですから。部活動という枠組みをなくして、スポーツや文化活動の指導の場を残して、そこに参加すればいいんですよね。
それが、地域スポーツの考え方の基本です。
部活動は地域スポーツ・地域のつながりを破壊する!
すごく簡単に言うと、部活動を廃止して、地域スポーツが代替するということです。しかし、こうしたことは当たり前のように議論されていて、この議論の場合、「部活動をやめても受け入れの場がない」というような、にわとりとたまごのような議論になって、つぶれています。
結論的に書くと私の提案は、「今とほとんど同じ活動を、今とほとんど同じ場所、つまり学校で、地域スポーツとして行う」というものです。もちろん、この案にも根本的な問題点があり、実現にはものすごく困難がともなうのですが、その話は次回にするとして、今回は、「部活動が地域を分断する」という話を論じます。
つまり、まずは「部活動の廃止」が急務なんです。
国語の教員として小論文の指導をしていると、たとえば孤独死とか介護の問題、防災と地域のつながりなど、社会や地域のつながりを問題にしてくることが多々あります。そうすると、生徒は「旧来型の共同体」「地域社会の復活」というような「つながり」が必要という論旨で書いてくるのですが、ここには大きくふたつの問題があります。
その1。個人としての生き方を尊重する中で、本当に君は、社会のつながりを希求しているのか、ということ。前回国語の方で、
こんなことを書きましたが、個人の生き方を欲しているがゆえに、その保証、代行を社会に求めているだけで、裏側にはむしろ他人とは関わらずに自分として生きたいという欲求が強くなっているんじゃないか、ということです。
だから、問題点の一つ目は、そういうことをわかったうえで、自分の時間の一部をさしだして、社会とのつながりを持つ気があるかどうか、ということです。
そして二つ目は、じゃあ、どうやってつながりを復活させますか、ということ。地域とのつながりは必要。そのためには、しがらみとでもいうべき、他者との関係の面倒くささを受け入れ、個人の自由の時間を差し出す。ここまで来たとしても、じゃあ、どうやって「関係」を築きますか?というのが大きな問題になることが多いんです。
そういうことを考えずに、きれいごと(言葉が強かったらすいません)として、「地域のつながりは必要不可欠」。でも、できれば、地域の会合とか子供会とかPTAとかない方がいいし、年金だって払った分もどらないなら払いたくないし、保育所は作ってほしいし、介護は国がやってほしいし、虐待が起これば児童相談所の責任にしたいわけですね。
これは厄介なわけです。まあ、こう考えると復活させるべきなのか、あるいはどう代替を作るのかというのが問題になるわけですが、とにかく地域のつながりを必要と考えるなら、崩壊している原因を考える必要があります。
さて、そういう地域の崩壊を招いているのは何か?
実は部活動ではないかという仮説を私は持っています。
たとえば、小学生のこどもをイメージします。好き嫌いはさておき、運動会やら、PTAやら、あるいは日曜日の習い事やら、コミュニティは地域かどうかはさておき存在します。つまり、子どもが友達、あるいは同じ場に集う。そうすると、子どもの親は、子どもを通じてコミュ二ティを形成するんですね。
これ、おそらく、子どもがうまれてから小学生までは続きます。「ママ友」とか「公園デビュー」とか、ほら、「つながり」の負の側面がちょっと出てきますよね?つながるってしがらみですから。
それは実はあるんです。
日曜日の学校の校庭や体育館をイメージします。
小学生はいそうです。地域のスポーツクラブですね。お父さんもいるかもしれません。草野球、草サッカーとかをやっていれば。お母さんも同じ。ママさんバレーとかですね。お年寄りもいるかもしれません。ゲートボールとかのイメージです。
あれ。中学生から大学生、あるいは若い社会人が欠落します。この人たちが、ある意味で、地域から離れた人たちなんです。
中学生になると、部活動にとられます。競技によっては、保護者のサポートが必要なこともあるでしょうが、小学生だったら、送り迎えふくめてほとんど親が多少なりとも見に来ていることを考えれば、絶対数は大きく変わります。ふだんの学校の日曜日の練習に親がどれだけ参加するか、という話。そういう手伝いを求める強豪クラブもあるでしょうが、大半は親は参加しません。
高校生になるともっと顕著です。たいていの場合、地域からも子どもが離れて学校に集います。親はより参加はなくなります。
大学生になると完全に地域から子どもは独立し、親がそこに参加するケースの方がまれになるでしょう。
そして社会人になります。子どもは地域から独立し、それぞれの場所で暮らします。新しい場所でつながりはそうはできません。親もこのあたりで移住も選択肢に入ることもありますし、つまり、ここまでで地域とのつながりを失っていると、どうするかは考えるわけです。ずっとここで暮らしていたならいいんですが、就職してたまたまここに住んでいる。地域とのつながりもない、となると、故郷とかそういうことも含めて移住を考えることもでます。
そして、結婚してまた新たな生活の地を求めることもあるでしょう。
最後に子どもが生まれて、そこでのつながりが誕生しはじめます。
これはあくまでも、趣味やサークルなどで人とのつながりを積極的に求めないケースで考えていますが、こうなります。
- 幼児期=地域とのつながりはある。
- 小学生まで=学校や地域スポーツを中心につながりがある。
- 中学生=地域ではあるが、部活動が中心となりそれ以外のかかわりが減る。
- 高校生=地域から離れ、部活動を中心に参加する。
- 大学生=完全に地域から離脱。趣味は大学の仲間、バイトの仲間などそれぞれの場所で。
- 社会人・未婚者・子どもが生まれるまでの既婚者=地域から離脱。どうかかわりを持つかが難しい局面。
- 既婚者・子どもが小学生まで=こどもを中心に地域とのつながりが生まれる。
- 子どもが中学生・高校生=徐々に子どものコミュニティに顔を出す必要がなくなり、自分の趣味やサークル的なコミュニティがないと、地域とのつながりを失う。
- 子どもが大学生以上・働いている最中=子どもは自分の生活から消える。仕事以外でコミュティを持つかどうかは、個人の意思による。
- 定年退職後=さすがに何かのコミュニティを持ちたいが、これまでの関係がないと新たなコミュニティをつくるのは非常に難しい。
こんな感じです。
結局、今のコミュニティは、学校、それも公立でほぼしめる小学校を中心にできあがっているといえます。それは悪い面なのかもしれませんが。
もし、です。
中学生、高校生になっても、学校に部活動がなかったとしたら…。大学でもそういう活動の場を作らないようにあえてしたとするなら…。
全ては、「地域」でやるしかなくなります。
つまり、今は、「小学校」に小学生や保護者、社会人、高齢者が、「中学校」には、その学校に通う生徒が、「高校」にも、その学校の生徒が、そして、大学生以上になると、それぞれが自分の場所で、活動をすることになるわけです。
同じ場所で、同じ活動をしていれば、異世代間の交流をはじめ、一貫した指導もできますし、競技の継続もしやすくなるはずです。
そういう機会を、部活動がつぶしていると考えることはできないでしょうか?
たとえば、中学校の部活動を考えると体育館なんて、部活でとりあいです。バスケ、バレー、卓球、ハンド、バドミントン、今だったらダンスなんかもあるかもしれません。こんなの、学校ごとに競技分けて、小学校から高校生まで、確かにたいへんですけど、同じ場所でやれれば、いろんな交流が生まれるし、効率もよくなるはずです。
指導者どうするんだって?
もし、学校で部活の指導をしたい人がいるなら、そのままスライドすればいいだけの話です。たとえば、私はずっと学校の顧問をするわけですが、そうすると自分の子どもの指導には関われません。こんなのおかしくないですか?私が指導したいなら、地域で好きに指導すればいい話。
なぜ学校で指導しないといけないのか?
そんなこと言ったって指導したくてしているわけじゃないから、指導者が足りなくなる?
いや、それはまさにこの問題の本質です。もし、そうなら、だからこそ、どうして学校の先生にそれを押し付けるのか?やりたくないのに、必要だから誰かがやらないといけない。だから「先生」だとすれば、学校は本当にブラックです。先生なんてやらない方がマシ。
みんなが、個人として自分の好きな生き方をするために、必要なものは公的機関にやってほしい、ということですよね?
だいぶおかしいです。
さて、学校の部活動の弊害はだいぶ見えてきたと思います。
では、どうするのか?次回は解決策を書きますが、まあ、実現には高いハードルがあるので、そのあたりも踏まえてまとめる予定です。