学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

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大学の授業が一日も早く「普通」になることを願って

今日も報道では、大学の運動部のクラスターの話題が流れてきました。

ともかくも、一日も早い普通の授業の再開を願って今日の記事を書きます。

また、大学の運動部クラスターの話題が流れてきました。

こんな報道が流れれば流れるほど、どんどん大学の「普通」の授業が遠のいていく気がします。なんとか、この流れを食い止める手段はないのでしょうか。

ある程度、普通に、小中高校、そして社会全体が動いているのに、どうして、大学の、しかも正規の授業だけがオンラインで動いていくのか。

もちろん、オンラインの恩恵を受けていたり、楽になったりしている部分もあることも承知していますし、この経験がコロナがおさまった後の、大学のありようを変えるのではないかという、ポジティヴな部分も尊重はしていますが、それでも、なお、もう一度書いておきたいと思います。

 

運動部クラスターは、スポーツの再開。どうして、授業は取り残されるのか?

ネット上のコメントを見ると、運動部クラスターの発生については否定的です。

その根本は、大学の授業が完全に対面で再開されていないのに、体育会活動だけが普通に運営されはじめているように見えているからです。

大学の根本は学業ではないのか?学業をさしおいて、どうして体育会だけ活動しているのか?あげくのはてに、クラスターまで発生して…。大学はどう責任をとるのか?

多少の意見の差はあれ、要するにこんな感じなんじゃないかと思います。

私は、途中まではある意味で一緒です。

大学の根本は学業。だからこそ、対面授業を、今まで通り再開すべきである、というただそれだけ。「どうして授業をやっていないのに…」ではなく、「スポーツができるんだから、授業もできるでしょう?」というただそれだけ。

安全安心とか、命を最優先とか言われると、どこかで反論できなくなる雰囲気があるんですけど、やはり、それは周りの状況次第だと思うんです。

小中高校はほぼ普通通りに日常を回しはじめている。

満員電車も普通にもどってきて、完全リモートワークなんてだいぶ姿を消している。

観光地や遊びのための施設に行くこともそれほどめくじらを立てられなくなってきている。

それでも、大学だけは、一部対面授業をはじめたにせよ、大人数の講義を中心にまだオンラインを継続している。

このアンバランスがどうしても納得がいきません。

大学生が、より移動をするとか、繁華街にいくとか、アルバイトするとか、わからなくはないんですけど、緊急事態宣言のころにくらべて、食事に行くことも、遊びに行くことも、だいぶ意味合いが変わってきたわけで、まさにさまざまな「GO TO」が行われようとしているときに、まだ大学だけが「安全と命を優先して、オンラインでできるからオンライン」という流れが、いかにもバランスを欠いています。

「スポーツよりも学業が大事」

これはいいんです。問題は、「だからスポーツなんてやめさせろ!」ではなくて、「だから、まず、学業を再開させろ!」ということなのではないかと私は思います。

オンラインでHRもやりました。やらないよりはやった方がいいんですけど、友達とちょっとした雑談もできないし、話を聞いている友達の雰囲気もわからないし、終わったあとに確認することもできない。

だから、オンラインのHRと普通のHRは違うんです。

まして、友達関係、人間関係ができていない場所、たとえば1年生や、たとえば学年変わってその講義をとったメンバーががらっと変わるような場合、多少なりとも顔を合わせる仕掛けを、たとえオンラインであっても作らないとどうにもならないと思います。

自分が経験したことでいうなら、

まず、第一段階、オンラインしか手段がなかった時期、その中でなんとか顔が見えるように、雑談ができるように工夫するしかない時期がありました。

そして、第二段階、手探りで学校が始まった時期、まだ自粛を強いる雰囲気が色濃くのこった時期、分散登校や時差登校など、時間が制約される中だからこそ、授業そのものより、顔を合わせて、友達との時間を重視する時期がありました。

そういう時期を越えて、今は、多少の制約はありつつも、かなり通常の学校生活だけであるなら、普通に行えるような状態になったわけです。

なぜ、この時期になっても、大学はいまだ、第一段階のようなところにとどめなければいけないのか。しかも、それを大学の外部の人が騒ぎ立てるのか。

学生たちがリスクからオンラインを望んでいるなら、まだしも、です。

 

大学の対面授業再開と大学入試

学生にしろ、大学関係者にしろ、さまざまな考え方はあるでしょうから、一概になんともいえませんが、今回のような報道がされればされるほど、大学関係者からすれば、「対面授業再開」はよりリスクに映るでしょうし、なかなか決断できない方向に動いていくのではないかと危惧します。

正直に言えば、小中高が学校を再開できているのは、「学校を再開すべきだ」という認識が先にあるからにほかなりません。

安全だから再開されたのではなく、再開するから安全なんです。

えげつなくいえば、「子どもの預り所」が必要だったんだと思います。実際、学校はやっていないのに、学童のような仕組みが必要となり、それが動き、そこに人手が足りなくなれば、学校の先生を使おうなんて話もありました。

学校で、学校の先生が、学校の生徒を面倒みるのに、授業はできなくて、こどもの面倒をみるしかない。そんなことが議論されていた時期もあったわけです。

実際、はじまってみたら、当然、いくつかのクラスターは発生しつつ、どうしようもないほどの感染拡大にいたらなかった。

というわけで、今も何とか学校は続いています。もちろん、秋冬を迎えてインフルエンザかコロナかが拡大するのは間違いなく、その場合、どうなるのかはわかりませんが。

でも、大学生は、世論からすれば、放っておいてもいいわけで、クラスターを作る可能性は回避してほしいといまだに思われています。

小中高校は、あわせて12学年分とそれに絡む保護者、あるいはその職場の同僚が味方になって学校の継続を支持しますが、大学の場合は、大学に通っている学生の4年分、いえ、実際にオンラインをほとんど強いられている、1・2年生という2学年分ぐらいの学生しか不満の声をあげられないという構図になっていて、大半の大人は、「いや、そうはいっても大学はリスクだよね」と続け、こういう報道がされると「ほらね。学生が活動しだすと、すぐクラスターになるんだからさ」と結論付けようとするんでしょう。

様子するに、大学外部の声は、無関心か、敵かです。

そういう外部の声があるとすれば、大学関係者からすれば、リスクは避けたいのは当たり前です。だからこそ、全面的な対面授業の再開にはいたらないんでしょう。

さて、こんな状況で、大学入試は本当に行われるんでしょうか。

コロナの状況が悪化したときはきびしい、というのは誰もがわかっている話だと思いますが、悪化しなかったとしても、対面授業をここまで避けている状況の中で、全国から受験生を集めるようなことは、論理的に、道義的に行えるのか?

横浜国立大学が、共通テストだけで判定すると発表し、私大の追試は、ほとんど共通テストで換えるという方向ですが、この世論の雰囲気を見ると、「対面授業はできない。対面授業もできないのに、入試なんて怖くてできない」となっていく可能性が高まっているんじゃないかと思います。

私大のどこかがもし、舵をきったら、たとえばクラスターが発生して叩かれる大学のどこかが、そんな決断をしたら、堰を切ったようにそっちに流れるんじゃないか、なんて思います。

 

理由のないものへの恐怖と絶対に避けられないものへの恐怖

インフルエンザに置き換えるとわかるんですけど、学級閉鎖をする前ぐらいの段階で、「クラスター」って言われて、教員や学校の責任が問われるなら、とても怖くて学校に登校なんてさせられません。そして、学級閉鎖は感染拡大をおさえる有効な手段でもあります。でも、「一人出たら学級閉鎖」ではなく、「だいぶ出たら学級閉鎖」です。

でも、小中高は、インフルエンザで「一人出たら学級閉鎖・学校閉鎖」なんてことは要求されません。「こどもは預かってほしい」からかもしれません。コロナでさえ、地域によっては、「即休校」とか、「しばらく休校」ではなくなってきました。

そんな中、大学は「クラスターになったらまずいからオンライン」という状況が続いているわけです。それは、確かにクラスターを発生させることそのものがいけない、ということ以上に「クラスターが発生したら責任を問われる」という部分が大きいのではないかと思います。

その気持ちはある意味ですごくわかります。

生徒たちがどんどん日常に戻る中で、万が一、発生したときのために、日頃から欠かさずにやらなければいけないことがたくさんある。生徒、教員の体調の記録を残したり、消毒をしたり、密を避けるような取り組みをしたり、フェイスシールドをしたり…。もちろん、必要だからやっていることではあるんですが、一方で、万が一が起こったときのために、「ここまでやっていました」という既成事実を残すという意味もあるような気がします。

登下校や休み時間の状況を見ながら、グループ学習を避けている状況を考えると、大学が対面授業を普通にはじめない理由はよくわかります。

コロナ発生当初、夜の街が悪くいわれましたが、しかしこうなってみると、昼の飲食も夜の飲食もあまり差はないような気がします。差があるとすれば、滞在時間とか、話すことそのものが目的かとか、確かにそこを封じると夜の街の意味がないのかもしれませんが、でも、差はない以上、危険を回避する方法もあるはずだし、事実、最近の状況で、夜の街と悪く言われているのは、プロ野球球団のクラスターぐらいじゃないかと思います。

誰でも感染しうる、感染することが悪じゃない、ときれいごとをならべながら、結局は、感染した人、感染した場所には何らかの理由がある、ということで私たちは不安から逃れます。

世の中、不条理に起こる、理不尽の起こる、避けられないものについては、むしろ「避けられたはずだ」という原因を作って、ぼくらは安心する。

逆に、続けていれば必ず起こる事件、事故については、その元となるものを継続しなければいけない以上、起こることは本来必然なのに、それが起こった特殊状況、たとえば、それを起こした個人の特殊性に理由を求めて、納得する。

コロナはまさに、この両方の状況を作っているわけです。

本来避けられない、理不尽な感染なのに、「夜の街」とか「大学」とか「3密」とかって言って、避けられるものにする。それを禁止しているから大丈夫ということですね。

「大学をオンラインでやれば感染拡大しない」っていう理屈でしょう。

逆に続けなくちゃいけない学校とか生活とかに関わる小中高校は後者。つまり、絶対避けられないということはまずいから、何らかの対策をしていれば避けられるのに、それを守らなかった個人や団体の問題として扱おうとする。

「教員のくせに立場を考えず旅行にいった」

「あの学校は3密に配慮せずに活動を行っていた」

「あいつらはマスクもしないで活動していた」

「あの先生は体調が悪かったのに平気で学校に来た」

「あの先生は、決まりを平気で破って検温もせずマスクもさせずグループ学習をおこなっていた」

要するに、大学と高校までで、理屈の作り方、安心の仕方が違うわけで、これはとりもなおさず、「小中高校はやる」「大学はやらなくてもいい」という、そういう区分けが先にあるとしか思えません。

いずれにしても、対面授業がほとんどできないなんていうのは、あまりにそのほかの現状と異なっていますから、なんとかしてほしいところですが、そのためにも、「大学はやらなくちゃいけない」「対面授業じゃないとだめ」というみんなの理解が欲しいところだと思います。