「学びの真似び」と名前をつけながら、どうしても受験情報、特に大学受験情報に偏りがちなので、「学びのコラム」をはじめることにしました。今日は「真似び」と主体性の話です。
どうしても大学受験の話が多くなり、一方で学習方法や学習計画の立て方はこむずかしくなり、生徒に話すようなアドバイスの部分がなくなってしまいがちなので、単純なことですが、「学び」に関するコラムを雑談のように入れていくことを考えました。最初なのでタイトルにもある「真似び」についてです。
「教育」と「学び」を考える~教育の目的
「教育」とか「学び」とかを議論していくと、どうしてもどこかで「ずれ」のようなものを感じてしまいます。
たとえば、早期教育とか中学受験とか大学受験とか、そういうものを考えていくと、何を目的とするのか、というところを議論していないために、どっかでかみ合わなくなってくるんです。
ていうか、そもそもそのことを考えていなかったり、自明になっていて問い直していなかったり、あるいはなんとなく学びや教育の目的なんて全部同じもののように見えていたり…。
今日はそんなことを考えてみたいんです。
「教育」と「学び」
教育と学びを漢字で考えてみた場合、どちらも「子」という字が入っています。教育の「教」は「孝行」の「孝」ですね。それに「のぶん」がついています。
孝で見た場合、上は「おいがしら」老人とか考えるとかです。
つまり、孝行の孝は、年寄りを子どもがささえる。そのためにむちを使っているというのが教育。「のぶん」はムチですからね。
「学」は子どもが建物の中に入っているイメージ。まさに学校ですね。うがったものの見方をすれば、こどもを閉じ込めて勉強させるイメージ。
というわけで、スパルタが好きな人、あるいは「ほっといたら勉強なんてするわけないんだからさ」という性悪説に立つ人は、これをもってほらみたことか、と言わんばかりに、子どもに勉強させようとするわけですね。
でも、これは漢字の話。和語、訓読みでは「まなぶ」であり、それは「まねぶ」です。つまり「真似」をすること。ムチもなければ、閉じ込める場所もない。ただ、師匠を真似するわけです。
そうすると、ここにふたつの教育観ができあがります。
- 教育や学びとは、多少いやなことであってもがまんして身につけていくものだということ。
- 学びとは、自らが真似をするという主体性、やる気、好奇心の問題であり、与えるものではないということ。
どっちも経験上、正しいですよね。私が下の立場に立っていることは間違いない事実でしょうが、でも、クラブで厳しい練習を課したり、古文が嫌いな生徒になんとか勉強させたり、宿題を出したり(ほんとはほとんどやらないんですけど)、強制をしている面がないかといえばうそになります。
だって、勉強がまったくできないと親としてはちょっと困りますよね?
どちらが正しいのか?~両方正しい、でいいの?
さて、どっちが正しいんでしょう?
あらためて考えるととまどってしまいます。
できれば、下の方がいいに決まってる。子どもが好きなことをやって、のびのびと楽しくやってもらうのが一番。でも、ある程度はいやなことでも身につけてくれないときっと困る。こどものうちに後で困ることなんてわからないから、がんばってムチを持ってでもやらせなくちゃ…。もちろん、最初からムチなんてもたなくていいけど、いざとなったらね…
なんていうのが、大半の人の落ち着くところでないでしょうか。
これに、
「こどもが自主的にやるわけないんだから、最初っからやらせるしかないのよ」という方と「こどもの人生なんだから、好きなようにやればいいんだよ」という方がいて、これで大半議論されているわけです。
まあ、両方正しい…なんて気になりますよね?ケースバイケース。だからこそ、「難しい」んですよね。今、うちの子はどっちなんだろう…って思うわけです。成功とか失敗とかでなく、今、どっちでいくべきなのか判断に迷うんですよ。
たとえば、幼児教育ひとつとっても、やらせすぎなのか、無理にやらせてないか、でも、やらないで遅れちゃったらどうしよう…とかね。
教育の目的を考える
ここで、教育の目的を考えてみたいと思います。
こどもの幸せ…そうですね。きっとこんな感じでしょう。でも、もう少し具体的にしてみませんか?どうすることが子どものしあわせでしょうか?
ひとつじゃなくてもいいです。
- ある程度豊かな暮らしができること
- 迷惑をかけない自立した暮らしができること
- いい企業やいい大学に入ること
- いい子にして、みんなから愛されること
- 最低限の知識をつけること
- 生きていくのに困らない力を身につけること
こんな感じでしょうか…。すいません。このあたりはもっと違う言葉で、もっとえげつなく具体的に書く人もいるかもしれませんが、ちょっと勘弁して、この中のこれだな、ぐらいで同意してもらえると助かります。
いくらこれを「年収1000万ある」とか具体的に書いても、職業とかステイタスとかになると結構あいまいですよね。
この中で具体的なのは、企業とか大学、あるいはその前提となる高校や中学といったあたりではないでしょうか。
いい高校からいい大学へ。いい大学からいい企業へ。それが安定した生活をもたらす…。一昔前に比べれば、この図式そのものは崩れたといってもいいし、こんなために教育しているわけではないかもしれないけれど、やはり、こういう可能性、確率の高さを考えれば、『選択』できるような状況をこどものうちに作りたいという本音はみんなどこかにあるような気がします。割合は変わるにせよ。
で、これをきったときに果たして、何が目的なのかと考えるとどうも「勉強」そのものが必要なものはなさそうです。
あるとするなら「最低限」というような言葉ですね。「大人」として「社会人」としての「最低限」の「常識」。
確かに、漢字もまったく読めないようでは、仮に一流スポーツ選手になっても恥ずかしいと考えることもあるでしょう。そうだとすると、そこまではスパルタでも嫌でもやってもらわないとね。
最低限が家庭によっては高くなっているだけかもしれません。そう考えると確かにスパルタというのが悪いわけではないですね。
まあ、東大いけないなら、人としてまともでないっていう価値観はどうかとは思いますが…
でも、これって考えてみれば、あくまでも「社会で通じる基準」みたいな話です。
だから、それ以外のものは、全部あまりそういう結果ではないわけですね。人としてのありようというか、考え方というか…。
そう考えてみると、私たちは教育の目的として、明確な結果、あるいは知識そのものを求めているわけではない、ということになります。社会を生きる最低限の知識をのぞいて…
「真似び」は主体性
大学受験とか高校受験とか中学受験というのは、結果です。受験というのは、範囲というかルールが決まっていて、その中でどうやって結果を出すかの勝負です。
中学入試をはじめとして、出題者は単純な知識じゃなく、はじめて見たようなその場で考えるような、いわゆる思考力型の問題を出していますが、それさえも教科と範囲の中の話です。
たとえば、大学入試で考えたって、法学部、経済学部に行くからといって、法律や経済が問われるわけではないということになります。
つまり、知識なんですね。知識であるとするなら、詰め込めば(言葉は適切でないかもしれません。全部が覚えるだけではありませんが、ある種のパターンだとすれば、それも訓練できるという意味で使っています。)なんとかなってしまう。つまり、準備ができる。極端なことをいえば既知のものを使った勝負なんです。
でも、社会は未知なものにあふれている。10年経てば今ないものがあふれているし、それを作り出したり、自分自身も変わったり、そういうことにあふれている。
だから、「真似び」なんですね。同じ受験という範囲とルールの定まった勝負でも、そこに自らが主体的に、工夫して、計画してとりくめるかどうか。困難があったときに、自分で修正できるかどうか。
範囲とルールがあるからこそ、準備としてはやりやすいんですね。
早期教育、幼児教育の問題もここで解決できると思っています。早く取り組むこと、覚えること、知識を入れることそのものにどれほど意味があるかはわかりません。(知識を入れる意味はあります。でも、幼児で入れるか、少し大きくなってから入れるかということなら意味が問われるんです)でも、そういう課題を与える中で、子供の主体性が育ち、工夫が始まり、主体性が伸びるなら。
大きな意味があるんです。
結果だけなら、あとで塾に入れてもいい。でも、過程に目を向けるなら、意味があるんですね。
だから、私は学びは真似び。こどもががんばって、真似してほしいなあ、と思います。