今日の記事でようやく100記事目になります。というわけで、入試改革・新学習指導要領などがめじろおしの学校環境を考えつつ、「学び」について考えます。
この「学びの真似び」も、ようやく100記事目になります。本当は、学習方法やアドバイス、計画の立て方などを中心に書いていくということを狙っているんですが、どうしても目先の大学受験にとらわれて、ある程度書いてからは学習計画や学習方法が後回しになってしまう傾向にあります。今日は100記事目ということで、「学び」が今、どんな状況にあるかを考えてみたいと思います。
大学入試改革と新学習指導要領
学校は、大学入試改革や新学習指導要領とかそういうものに対応することが迫られています。
で、そんな情報が出てくれば、とくに受験に直面する保護者も大変。
きっと、何がどうなってるのかよくわからないし、とにかく受験に関わることは間違いないから、どうしよう…ってなるわけですよね。
これは、重いテーマなので、またしっかり書きますが、大学受験が遠い人向けに書くと、
- 記述が出題される。
- 英語が4技能になる。
- 入試が「主体性」や「思考力」も問うようになる。
- 小学校でも英語をやる。
- プログラミング教育が始まる。
- 道徳に成績がつく
- 数理や地歴、国語など、高校のカリキュラムが変わる。
なんていうことが断片的に情報として入っているんじゃないかと思います。
英語に関していえば、共通テストで英語4技能が入ってくるというだけではなく、最近だと、
なんていうニュースもありまして、どうも小学校から英語が始まり、中学入試でも英語を入れてくるところが出てくるは、高校入試では英語が4技能必要になるは、まあ、一気にものごとは動くわけです。
そりゃそうだ、といえばそうなんですよね。
スピーキングテストを入試でとりいれるとなれば、面接ではなくて、タブレットに録音するような形式になっておりまして、大学入試に向けて同時にそれが可能になるように、機材を一気にあつめてしまったわけですね。そうなれば、逆にそのノウハウをいろんなところに売り込めるようになる。
先行投資してしまったわけだし、国としてもそれに協力させるわけだから、ちゃんと使ってもらわないと困るわけです。
書いてて思いましたけど、ベネッセ(GTEC)あたりはきっと一気に準備するでしょうけど、他の団体は大丈夫なんでしょうか…。人数制限できたりしないんでしょうか…。急に不安になりますね。
今日は、そういうことはおいておいて、ちょっと大学入試が遠い子どもを持つ保護者、あるいは教育関係者向けです。
プログラミング教育とか、英語教育とか、そういう類いのものが小学校から始まっていくわけで、本来は、学校のカリキュラムが変わるから、別に保護者が慌てる必要はないんですよね。その延長線上に大学入試改革があるわけで。
おかしいですよね。
保護者はどんとかまえていればいいはずなんです。だって、こどもがどう育つかのカリキュラムが変わるんだから、心配する必要ない。新しいカリキュラムが、新しい子どもを育て、それが新しい入試に対応するはずなんです。
でもね。そうはいかないですよね。
それが問題。
だって、大学入試が変わるのが先ですもんね。学校が、カリキュラムが変わるかどうか信用できないですもんね。とくに英語とか。
この議論のおかしなところは、まず、大学入試を変える。そして教育を変える。というところ。確かにそうではあるんです。受験生も、保護者も、学校も、塾も、ある程度、受験というゴールに向かって走るので、大学入試が変わらない限り、なかなか変えようとしないですからね。
だから、特に入試制度自体が変わっていく最中の生徒たちはとまどうわけです。
きれいごとでいえば、本来のカリキュラムそのものが変わっていないわけだから、そのカリキュラムの中で何が要求されたって文句はいえない。
でも、本音でいえば、あるひとつの目標に向かっていたのに、なんで変わるの…って思うわけです。いえ、目標に向かっているわけでもないですよね。今まで、問題演習やってればよかったのに、なんで急にぼくらから、いろいろ変わるわけっていう感じ。
ともかくも、入試も変わるし、指導要領も変わるし、学校の教育も変わる。そんなことがこれから起こるわけですね。
AIをはじめとする社会の変容
大学入試が変わることをメインに考えるなら、大学に行かないなら関係のない話ですし、あるいは大学に入りさえすればその他のことは関係ないということになります。
それは、どんな形かわかりませんが、いい大学に入りさえすればあとは大丈夫という考えであることにもなります。
確かにある程度、大学にどう入るかは問題であっても、大学に入ればもう終わりという時代はとっくの昔に過ぎていることはきっと知っていることでしょう。
だから、こういう大学入試改革は迷惑だということは大前提としながら、もう一度きれいごとに立ち返ることも重要です。つまり、こういう大学入試改革の中で、より社会で生きる人材に子どもをどう育てるか、ということ。
そうなんです。きれいごとというのは簡単なんですが、実は一方で、保護者もふくめてそのきれいごとことをのぞんでいたりするわけです。
やっかいですね。
この記事で、単純な事務的な仕事が機械にとってかわられるというようなことを書きました。そうなれば、より「未知の世界を切り開く人材」が必要になるわけですよね。
そういう中で、もう一度今回の改革を振り返りましょう。
- 英語は話せることも必要です。
- 自分のやってきたことを振り返り、次の課題を見つけることを、常に記録していくことが大事です=ポートフォリオ
- ただ正解を選ぶんじゃなくて、言葉で説明する力や思考力が大切です。
- プログラミング教育のように、論理的に逆算的に考える力が大切です。
- 専門の科目だけでなく、一般教養も必要です。
なんだか悪くないですよね。これを学校がやってくれる…見方を変えれば、そんなに悪い話じゃないんです。
大学入試が変わる以上、確かに何か対応しなくちゃいけないんですけど、それに合わせて教育が変わるってそんなに悪いことではないですよね。
「学び」のスタイルはどう変わるのか?
しかし、よく考えてみると、そんなにすごいことがでしょうか?
今までの子供たちには、こういう力は必要なかったんでしょうか?
事務的な計算的な仕事を正確にやることだけが求められていたんでしょうか?
もっというなら、今の大学入試では、思考力や逆算する力を求めていないんでしょうか?
そうやって考えてみると、今までだって必要だったはずで、だとすれば、今までだって入試で要求していたはず。
だとすると、です。英語の4技能とか、共通テストで記述が入るとか、いくつか象徴的なことがあるにしても、実は、入試問題そのものは、一気に大きく変わるようなことはないと思いません?
たとえば、慶応大学の国語は小論文です。一橋の国語は、近代の文章を読ませます。早稲田の法学部では、法学・社会科学的文章を読ませて100字ぐらいの要約を出します。
そんなことずっとやってきたわけで、そういうことを一気にやめる必要はないわけです。入試問題は少しずつ試行錯誤を繰り返しながら、思考力や記述力も含めて、あるいは主体性もふくめて、対応しようとしてきたのだと思います。
あれ?そうだとすると、大学入試に合わせて学校の授業というものがあったとするなら、現在の学校の授業も、もしかしたら、すでに思考力や記述力に対応しているんだ、といえるかもしれませんね…。
なんだか禅問答みたいになってきました。
確かに、私もいろいろな先生の取り組みを見ていると、「変わる必要なんてないですよ」という方もいれば、「やり方を大きく変えないとまずいですね」という方もいらっしゃるような気がします。
たとえていうなら、センター試験の問題演習をする授業があったとして、センターの問題だけを扱い、ひたすら答えを選ぶテクニックだけを教えているとするなら、やり方は変えなければいけないけれど、全体的な科目の概念を教えて、内容や意味やそういうところまで、入り込んでいるとするなら、大きくやり方を変える必要はないのかもしれません。
それは、実は受験勉強をする生徒の側も、同じなのではないでしょうか。
知的好奇心を持って、授業を教養のように貪欲におもしろさを感じているような生徒なら、受験に一見関係ないようなことに興味関心を持ってまじめに取り組むような生徒なら、何も慌てることはありませんが、受験に必要なテクニックだけを、最小限効率的に学習したいと思って、いらないものはバンバン切り捨てているような生徒なら、実は大きく変わらないといけない。
私は年をとってきて経験を積んで思いますが、結局は目先のテクニックに走るより、もっと大きな、教養のような部分まで含めて授業であつかった方が、結局は成績があがるような気がしてきています。無駄なことが入っているように見えて。
もしかしたら、慌てているのは受験テクニックに走って、それだけを扱ってきた人たちなんじゃないか、それだけを期待している人たちなんじゃないかとさえ思ってしまいます。
まあ、私も慌ててるのかもしれませんが…。
アクティヴラーニングの忘れ去られている一面
そうやって考えてきたときに、私は持論としているのは、アクティヴラーニングは、単純にグループワークをしたり、あるいは探究的な学習をするというだけではないということです。
いわゆる学習計画を立てる力、自習をする力、あるいは指示されていなくても自分で目標に向けて取り組む力、というものが、もっと強調されていいと思っています。
これは、「生徒は子どもだから、宿題として課さないかぎりやらない」というようなものに対立する考え方です。かといって、自分で取り組ませるために、放っておく、といいうのでは教育ではありません。
目標を立てるということは、ひとつの目標を決めて、逆算的にやるべきことを見つけて、期限までにこなしていく力です。収束させる力、すべてのことをあるひとつのものに結び付けていく力です。ある意味で言えば、優先順位をつける力、切り捨てる力ともいえるかもしれません。そして、それは目標が決まっているといういみで、既知のものであるともいえると思います。
一方で、好奇心、興味、関心に通じるような、今の自分からどんどん広げていく力も必要です。一見いらないようなことにおもしろさを感じ、そこから発想を広げていく。今の自分の目標を変えていくような力も必要です。これは優先順位を無視して、どんどん取り込んでいく力ともいえるでしょう。おそらく、趣味や旅行やクラブ活動が重要というような人は、この部分が強調されていると思います。未知の世界に向かう力ですね。
AIのような話になると、すぐに後者ばかりが強調されますが、果たして前者は身についているのでしょうか。
受験というような目標ひとつとっても、マニュアルが決まっていて、先生や塾が、課題を決めて与えていくようなことになっていないでしょうか。
おそらく、前者の「目標を決め、逆算して、課題を見つける力」というものをいかに子どもに与えていくかが重要なんだろうと思うのですが、このことについては、放っておいても自然とできるような子を抱えている学校と、放っておいたらそれができないために、先生がそれを課題として与えている学校に二極化しているような気がします。
はたして、後者をどうやったら伸ばすことができるのか?
このブログでは実は、そんなつもりで学習方法や学習計画についてまとめていきたいと思っているんです。