京都大学が、解答公表の方針であることがニュースで伝わりました。これ自体はすでに7月に伝えられていたことですが、この問題について考えます。話題は大学入試ですが、特に中学入試の難関校受験も参考になるかもしれません。
京都大学が解答を公表することになりました。
このことは、昨年の入試問題の出題ミスから始まっておりまして、文科省からは原則公表の方針がすでに掲げられております。
この問題について、受験生の側からすれば「なんで公表できないの?」「何かやましいことでもあるの?」「ごまかそうとしてるの?」みたいな疑心暗鬼が出て来るわけですが、このあたりを、出題する立場に立って、考え、特に、記述問題があるところを受験するときに、どういうことを意識して、解答を作るべきかを考えてみたいと思います。
- 「どうして、解答公表できない?」と考えるのは…
- みんなが当たり前だと思っている、「正答は、要素=部分点の集合」
- たとえば、「小論文」の採点基準を考えてみる。
- 私大や高校入試など、大量の答案に、厳密な採点を求められる記述題
- 字数の多い要約や説明、自分の言葉で説明を求める問題
- 数学や理科の問題の採点基準は?
- この問題から学ぶべきこと~採点基準は要素採点だけではない。
「どうして、解答公表できない?」と考えるのは…
そもそも、受験生の側からすると、おそらく、解答を公表することにためらう意識がまったくわからないのではないか、と思います。これがすべての疑心暗鬼を生んでいる部分です。もちろん、それを「大人の事情」と片づけてもかまいませんが、なんでこんな記事を書こうとしているかというと、これを理解していないということは、「正しい解答が作れない」可能性があるからなんです。
このことについて、どうして解答公表できないかについて疑問を持つかといえば、それは、
「正しい解答が存在し、採点基準が明確にある」
と、考えているからです。
「えっ」と思った方もいるでしょう。
試験をやる以上、模範解答ぐらい作るだろう。記述問題であれば、採点基準を作って部分点を与えるだろう。それが、採点基準によって点数が入ったり、入らなかったりするような「ユレ」はあるかもしれないけれど、「正しい解答」とか「採点基準」とかがないかのように書くっていうのはありえない、と。
もちろん、半分はその通りで、模範解答も作りますし、採点基準も作ります。当然、答案用紙を見て、採点基準を厳しくしたり、逆に甘くして点をあげたり、ということも、統一した基準の中で起こります。当初のもくろみと違う基準でつける、ということですね。
だからこそ、これが当然だと思う人は、「試験終わったあとに、採点基準を発表することぐらいできるだろう」と思うわけです。
みんなが当たり前だと思っている、「正答は、要素=部分点の集合」
そのように思ってしまう理由は、試験の採点というものがよくわかっていないからです。その人たちの採点のイメージは次のようなものですね。
試験というものは、
- 明確な正答がある
- その正答は、部分点として、ブロックごとに配点が割り振られている
- その部分の集合で、満点が作られている。
また「えっ、違うの?」と言われそうですね。「だって模擬試験なんて、全部そうなっているじゃん」という感じ。
だから、こうなるんですよね。ある意味で、この話は、予備校や塾の先生とあなたがたは同じ穴のムジナかもしれません。試験というものを公正にしようとして、模試をこういう風にブロックにわけて、部分点の積み重ねで正答を作るということを、予備校の先生がして、それでみなさんができあがっていくわけです。
もちろん、こういうネットにあんまり書くといけませんので、あえて具体名はふせますが、模試の採点基準も、実は模試によってさまざまで、部分点を細かくわけている模試もあれば、そうでない模試もあるんですよ。
戻りますが、では、「そうでない採点基準」とは何なのでしょうか?
たとえば、「小論文」の採点基準を考えてみる。
これを理解するためには、「小論文」の採点基準を考えてみるとよいでしょう。ふりきった自分の意見を書くものではありますが、こういう類の問題の場合、どのような採点基準が考えられるでしょうか。
たとえば、赤本を開くと、解答が省略されるケースが出てきますよね。どうしてでしょうか。
それは、「解答を書いたとしても、それは一例にすぎない」ことではないでしょうか。もちろん、解答を書くだけの手間を避けない、という切実なコスト意識が入っていることもあるでしょうが…。
では、そういう問題の解答例の場合、本当にそれは満点がもらえるのでしょうか。もちろん、ほかに解答がある、というのは当たり前なので、おいておいて、その赤本の解答例は何点もらえるのか、ということです。
結論からいえば、それは採点者しだい、その大学の採点基準次第です。
あやしいと思いますよ。私、結構指導してますけど、慶応の特に、法学部、経済学部の赤本の解答、「これじゃ不合格答案じゃない?」って思うレベルまじってますよ。たぶん、国語の先生が、法学とか経済学とかわからず、問題の意図もわからず、書いてるんじゃないでしょうか。小論文として。
少なくとも、「矛盾なく答えれば、全部満点」ということではないでしょう。だから、おそらく、大学が用意したレベルがあるわけで、その大学の用意したレベルを越えていれば、その解答は満点なのでしょうが、もっと高い内容、もっと深い内容を大学が求めているとすれば、その解答は満点ではない評価になるはずです。
当り前ですよね。
この場合、採点基準はざっと次のような形。
- とてもよく書けている答案=想定する模範解答と同レベル、あるいはそれを越える答案。
- よく書けている答案=想定するレベルには達しないまでも、おおよそ満足できる解答。
- 普通の答案=想定するレベルには達しておらず、誰にでも書ける答案。ただし、間違っているわけではない。
- よくない答案=事実認識や発想に間違いやふさわしくないものが含まれ、その大学でやっていくのにやや心配なレベル。
- 悪い答案=決定的に出題文が読めない、事実誤認がある、その大学・学部で学ぶのに問題のある思考・発想がふくまれている。
こんな感じ。何段階かは適当ですが、なんとなくわかりません?この感じ。
こうなってきたとき、問題となるのは、作っているのは解答のレベルであって、厳密な要素ではない、ということなんですね。
そうなってくると、答えに要素が入っているか、入っていないかは、大した問題ではなくなってくるんです。
私大や高校入試など、大量の答案に、厳密な採点を求められる記述題
こういう問題は、基本的に、採点の要素を決めて、配点を割り振るような形をとることが多いです。
私大の問題に、「本文の言葉を用いて」というような表現がよく入り込みますよね?これは、「抜き出しじゃないから、そのままでは答えにならないけど、ちょっと形変えて答え作ってね」ということです。
こういうことをするのは、採点するときに、同じことを言っているけど、本文にない表現が出てくると困るからです。国語の感覚からすれば、正解です。でも、採点するのが、「国語の専門家でなければ」あるいは、国語の専門家でも「たくさんの採点者がいて、採点基準を厳密に保てないと考えれば」、問題に「本文の言葉を使って」と指定して、「使ってないから、合ってるんだけどバツね」みたいなことをやりたいんです。
だから、こういう問題を山ほどやっていて、なおかつ採点をあまりやったことがなくって、さらにそういう採点をする問題を作る経験がないと、「試験問題は基本的に、採点する要素がある」っていう発想になるんです。
字数の多い要約や説明、自分の言葉で説明を求める問題
ところが、実際に入試問題を作ったり、定期試験で作ったり、さらに採点をする側からいうと、すべての問題が要素で採点できるわけではありません。
たとえば、うちの中学入試では、かなり要約的な記述問題を出題します。そうなってくると、骨格として要素は、要約ですから必ず存在するわけですが、そこからはみ出る「細部」が出て来るんですね。
限られた字数の中で、骨格以外に、何をいれるか、ということです。
それを採点する方法としては、まずは、骨格だけで採点するということがあるかもしれません。でも、これでは非常に簡単だし、そもそも字数がいらなくなります。
小説だったら、「どんな気持ち?」「悲しい」みたいな話で、それではもはや記述でしかない。だから、もう少し書かせたくなるわけですが、そうなると、すでに「ユレ」が起こってきますね。
うちの学校では、模範解答を作る段階で、その「ユレ」をどう採点するか見せるために、解答例を2種類ぐらい作ります。共通している部分が絶対の場所で、動かした部分が、「どっちでもいいよ。でも、こういうの書いてね」というメッセージです。でもね、これが問題集に載らない。スペースの都合とかあるんでしょうけどね。
だから、困るんですよね。書いた解答例のすべてが、採点基準だと思われると。
もし、ひとつの解答だけを見て、採点基準を判断されると、「これはいるけど、あれはいらないのか」みたいにとられません?
うちは中学入試だから、それでも解答ふたつぐらい作りますが、これは入試前の話なので実際の満点とずれることもあるし、大学側で、そのために模範解答何個も作ったり、わかりやすく採点基準を公表する義務があるかと言われれば、どうしてそこまでしないといけないの?って感じです。
でも、ひとつだけ出すのはやっぱり誤解が多いと思います。
もうひとつ、書いておきます。
自分の言葉で説明する場合、それはもっと「ユレ」が大きくなります。だって、わかって書いているか、わからないで言葉だけを抜き出しているかっていう差ですから。
東大をはじめとする国公立入試、それはおそらく、こういうことを要求しています。
そうなってくると、採点の軸がふたつになるんです。
「わかっているかどうか」「要素を拾っているかどうか」
この2軸だけで、採点答案は4つになります。
- わかっていて、要素を拾ってもいる。
- わかっているが、要素が欠けた。
- わかっていないが、要素をつないでいる。
- わかっていないし、要素も拾えていない。
ということ。一番上は素晴らしい、一番下は×でいいですね。
問題は、2番目と3番目。これが大きな問題。
私はおそらく、上の方が採点して高い点数をつける大学が多いと思います。だって、「わかってるかどうか」の方が大事ですから。
でも、解答例を出すと要素のように見えて、3番目が下手すれば満点のような気がしますよね。東大の国語が、『同じこと』を書いているのに、実際に点が入らないように。
実際の入試ではもっと厳しいです、採点。
たとえば、
- 要素が入っているが、余計なことを書いた答案をどうするか。
- 要素が入っているが、決定的に間違いの要素を入れた答案をどうするか。
- おおよその要素はつかんでいるが、決定的に字数の少ない答案をどうするか。
などです。
よくわからない人に説明すると、
最初は、「答えでない部分も含めて小さな字でとにかく全部書く」ような答案ですね。
〇か、減点か、×か。程度問題ですよね。
次は、大体あっているのに、違うこと書いた答案です。これだって骨格で間違えば、×でよくないですか?でも、「ささいなミス」か「骨格」かってこっちの主観ですよね。
最後は、山ほど書ける字数やスペースなのに、大事な一言で終わらせたら、あげるのか、っていうことです。
まあ、最初と最後をふせぐために、字数制限かけたり、スペース決めたりするんですけど、でも、やる奴はやりますよね。東大とかの解答用紙だと。
これがさっきのに加わるとき、おそらく、レベル別に、
「これA答案ね」とか
「さっきのがBだったら、これはそれより落ちるからCだね」とか、
「これは要素としてはいいけど、これをBにすると、さっきのよく書いているけど、間違った要素がある奴をCにしたっていうのと整合性がなくなるよね。書かなければ〇で、書いて間違ったらバツって。だから同じCか、それ以下」
みたいな感じで採点すると思うんです。
細かいことは、中学校、大学、学部、そしてそれぞれの問題によって違うと思いますけど。
数学や理科の問題の採点基準は?
というわけで、国語や社会の記述、というより、もしかしたら論述に近いような問題の採点基準を考えると、当然レベル別、ということがありうる、ということになりますね。
社会は大丈夫ですか?書くべき用語を入れれば、OKと考えるのが要素採点。でも、その用語をつないだだけでなく、わかっていること、考えることを要求してくるとすれば、国語と同じようになってくるわけですね。
さて、では、数学や理科の場合は、どうなのか?
私は、専門家ではないので、強くいえませんが、公表することに躊躇しているということから考えれば、同じような採点基準が適用されているんだろうと推測できます。
数学や理科の、「要素採点」にあたるのは、当然「部分点」の考え方です。これがよくわかっていないと、数学や理科の部分点は、「どこまでたどりついたか」で点数をもらえるという思い込みになっているはずです。
だとすれば、採点基準は非常に明確。
式が立てられれば〇点。
そこから、次の展開まで行けば〇点。
最後までできたら〇点。
途中で計算ミスがあったら、「たどりついたところまでの点」か「その次の計算ミスをしない人との中間」か。非常に明確ですね。
ところがです。
そうでなかったら、どうでしょう?そもそも、ゴールにたどりつくまでの道筋が複数あるとしたら?本当にどれを選んでも同じ点なんでしょうか。非常に明快にシンプルな道をたどろうとした人と、複雑だけど力技で解こうとした人を同じ得点に、そもそもするでしょうか。
きっと、専門家なりの考え方があるのだと思います。でも、私なら。
「どんなやり方でも〇なら点をあげる。結果として、そこを解くときに時間を浪費して損をするはずだから」などという考え方はしません。
なぜなら、そうだったら、そもそも途中を要求する必要がないからです。そもそも複雑で計算ミスが多いやり方をわざわざ展開して、計算ミスをした…。どうして部分点をあげる必要があるのか。
そもそもどういう解き方をしようと思ったかを見てはいけないのか。
もちろん、大学や学部や学科や、採点者の価値観によって変わります。痛いほどわかります。採点者で変わるっていうこと。自分もやってますから。
でも、そう採点基準が作られる可能性だってあるわけです。
そうなると、素晴らしい解法で、途中でくじけたものと、とにかく力技で、時間をかけて数え上げるようなやり方を使ってもっと進んだものをどちらを評価するかというのは、大学次第ということになりますね。
だからこそ、公表は躊躇するんだと思うんです。
この問題から学ぶべきこと~採点基準は要素採点だけではない。
私立大学文系の、抜き出し問題に毛がはえたような記述問題や高校入試、あるいは2020年の共通テストの記述問題は、確かに要素採点のような記述問題になっています。だからといって、そういう問題だとすべての記述問題を見ていると、痛い目にあいます。
私は国語の教員ですから、国語の問題を中心に見ていますが、たとえば、東大の記述や一橋の要約は決して要素採点だけで成り立っているものではありません。このあたりについては、きちんと書きたい、まとめたいと思っているのですが、自分のコトバで、どれだけ理解しているかを示す必要があり、そうなってきた瞬間に、多少言葉が抜け落ちても、きちんと意図を理解して答えている答案にひどい点数をつけるということはないと思うんですね。もちろん、それは問いごとで異なりますから、東大だから全部こうだぞ、なんていうこともないんです。要素採点で前半と後半、これしかない、みたいな問題も確かにありますし。(その場合でも、東大だと抜き出して終わる答案にいい点がつくようなケースはないと思います)
というわけで、現在はセンター対策ですが、二次に行く前に、今日の話を思い出して、赤本の答えと自分の答えを見比べてみてください。赤本の答えって、そういう大学は結構あやしいと思いますよ。特に現代文ね。
大学はきっと、そういう間違ったメッセージにとらえてほしくなくて抵抗してるんですよね。まあ、もちろん、面倒くさいっていう部分もないわけではないと思いますが。
少なくとも受験生は、「公表したくない気持ちに理解を示せ」ではなく、「採点基準が要素配点とは違うんだぞ」というメッセージとして今回の問題を受け取ると、合格に大きく近づくような気がします。
わかってないのに、似たようなことやってもだめってことです。