うちの子どもにやってきている「おさるのジョージ」を見ながら、子育てについて、考えさせられた話です。今日は、子育ての方法を考えます。
さて、今、我が家に空前の「おさるのジョージ」ブームが来ております。テレビが壊れて新しくなったのをきっかけに、いつでも「おさるのジョージ」が見られるような態勢にもなりまして、3歳の娘の「ジョージ」という言葉とともにひたすら「おさるのジョージ」を見たり、読んだりしているうちに、ちょっと考えることが出てきました。
というわけで、今日は「おさるのジョージ」と子育ての話です。
空前の「おさるのジョージ」ブームの中で気付いたこと。
うちには3歳になったばかりの娘ともうそろそろ1歳になろうかという息子がおります。「子育て」は教育に関わるものとしては、ものすごく勉強になることばかり。こうやって育つのかあ、成長するのかあ、と、びっくりしてばかりですが、娘の方には、キャラクターブームがやっぱりやってきまして、「いないいないばあ」から「アンパンマン」、そして「トーマス」と「ディズニー」特に「ソフィア」を若干はさみつつ、現在は、「おさるのジョージ」ほぼ一択という状況になっております。
洋服も、絵本も、テレビも、お昼ご飯も(ハッピーセットです。)、みんな「ジョージ」。
でですね。
この、ジョージ君、やることがひどい。とにかくひどい。
家が水浸しになるのは、DVD借りてくれば入っている4本中1本は当たり前。物は壊れる。動物は逃がす。汚す。迷子になる。余計なものを買う。山ほど買う。
迷惑としかいいようがないです。
まあね。アニメですからね。何か問題が起きて解決しないと物語にはならないし、「おさるのジョージ」は結構勉強になるエッセンスが多くて、いろんなことを知ることができる、大人が見てもおもしろいことが多いんですけど、とにかくやることがすごいんです。
で、びっくりするのがとにかく大人が怒らないんです。
なかよしの黄色い帽子のおじさんをはじめ、ほとんど起こることがない。せいぜい、困った感じで「ジョ~ジィ~!!」というぐらい。下手すると、ほめたりしますからね。「~したかったのかあ。すごいな」みたいな感じ。
これ、必ずしもなかよしの黄色い帽子のおじさんだけでなく、周りの大人、みんなそうなんですね。
とにかく怒らない。「仕方ないなあ」とかね、やさしく教えるとかね。
日本のドラえもんだったら、お母さんが「のび太~!!」ってなってから、解決じゃないですか?
この「怒る」っていう要素がないんですよね。やさしいなあ、すごいなあ。
何でも「curious」、「知りたがり」で褒めるに転嫁できるんだなあ、なんて思っていたら、この作品を見て、ちょっと思ったんです。
日本語のタイトルは、「ぼくって年少組?」というやつです。お友達のアリーが幼稚園に入るようになって、ジョージもついていくんですね。
そうすると、案の定、やりまくるわけですよ。本棚倒して、まあドミノのように全部倒すは、亀がいる水槽の栓を抜いて水浸しにするは、あげくのはてに室内にある、砂の箱の上にのっておりようとして箱壊して、砂が全部ばらまかれるは…。
悪気はないんですよ。みんなと同じようにやってるだけなんですよ。
でも、部屋はものすごい惨状になっていくわけですね。
当然、幼稚園の先生も困るんですけど、まあ、怒らない。やさしくさとす。
本棚のって、ドミノ倒しで倒した後。
「あら。気にしないでジョージ。わざとじゃないんだから。あとでかたづけましょう。」
砂をぶちまける直前。
「よくできたわね。はたもすてきだし。でも、ここにはのらないでね。」
水槽の栓をぬいたあと。
「ああ、水槽のせんは抜いちゃダメよ。ジョージ」
すごいでしょ?怒らないんですよ。
でもね、ちょっと気づいたんです。
砂をぶちまける直前は、
「よくできたわね。はたもすてきだし。でも、ここにはのらないでね。」
なんですけど、ここで、箱が壊れて砂がぶちまかれると、
「いやだ」と言いかけて、口を押さえるんです。
これ。つまり、思わず出ちゃったってことでしょ?いや、これは…。よかった。つまり、あの人たちは、ジョージのひどい行為を、笑って許しているんではなくて、やっぱりぼくらと同じように、ひどいと思いながら、意識してこらえて、「curious」という言葉に代えてなんとか認めていこうっていうことですよね。
ジョージのやったひどいことを「いやだ」と思ってるけど、それは言ってはいけないことなんだから、言わないように口をおさえる。
ほめて育てるの真骨頂ですね。すげーな、アメリカ。
許してしまうどころか、長所として認めなければいけないわけですね。特に教育に関わるものは。
いやあ、すごいわ。
確かにね。この話の中で先生が、「お城の絵を描いて。みんなが住みたいおうち。」ってやるんです。そうすると、アリーがですね、「私潜水艦の絵、描きたい」っていうんですけど。
先生、「いいわね。」って反応なんですよね。これ、なんでもありです。要は、制約つけずに、自由にやらせる。日本人だと「そうだね。アリーは潜水艦みたいなお城に住みたいんだね」みたいな、無理矢理やっていることの枠に入れ込む気がするんですよね。
このお話、先生が業者さんに、本棚と水と砂の始末について長々と教わっている間に、お城を描くんじゃなくて、作ればいいよ、と思いついたジョージに園児たちみんなが協力して、先生のためのお城を、倒した本棚だの、植木だの、本だの、ありとあらゆるものを使って作り上げて、先生が「まあ、すてき。想像力を発揮して…」と感激して終わるわけです。
これだって、結構、迷惑だと思うんですけどね。
子どもの想像力を大事にする教育
まあ、もちろん、これは素晴らしい発想だと思うんです。確かに、うちの0歳の弟くんの場合、ちょっと目を離した隙に何かやらかしますからね。
紙は破くか、食べる。コップは倒す。携帯を投げるかなめる。お姉ちゃんの大事なおもちゃを壊す。
3歳のお姉ちゃんだって、ついこの間、四字熟語カードを「お母さんのために」「お母さんが喜ぶと思って」窓ガラス一面(もちろん届く範囲)にのりで貼り付けてくれました。
考えて見れば、やること、思考のパターンがジョージと一緒。
でも、親たる僕らはつい「何やってんの!」「だめでしょ!」「いい加減にして!」となるわけで、ここを先生のように、「まあすてき!想像力を働かして、四字熟語の壁を作ってくれたのね!ありがとう!」となるのには、なかなか難しいんですね。
まあ、このときはこれ見たあとだから、「えらいね。すごいね。でも、のり使うとカードも壊れちゃうし、窓からとれなくなっちゃうからね」ってやりましたけど、家事に追われるお母さんに、できます?
というわけで最近、彼らの行動はうちでは「curious」「キュリオス!」と呼んでできるだけ、尊重しようとしております。
日本では「しつけ」に関わる「体罰」がようやく禁止される
さて、こんな話をしているのは、これが個人の主張が浸透しているアメリカの話だからです。
どちらがいいとか悪いとかでなく、個人の主張が進んでいけば、「当然」(ここが結構重要で、これって「近代」以降の「当然」なので)個人は尊重されるし、赤ちゃんであっても個人なわけです。
こういう価値観において、「しつけ」という名のもとに、個人の自由や権利が侵害されるようなことはあり得ない。いいとか悪いとかでなく、これが現代の世界標準である、ということになります。
こういう価値観の中では、「体罰が必要か否か」なんていう議論がそもそも存在しないわけです。ここのところ、続いた虐待の事件の中で、国連の子どもの権利委員会から日本に対して、勧告が出たなんていう話を聞くと(ここにはJKビジネスのようなものも入っていますが)、「何で?そこまでひどい?」とか思うわけですが、今回虐待防止のために、「しつけのためでも体罰禁止」なんていう法改正案が出てくる中で、「いやそこまでは…」なんていう議論が起こる日本と、この世界標準(アメリカ・ヨーロッパ標準ですけど)を比べれば、勧告は出て当たり前なわけですね。
教員としては、今や体罰は絶対に禁止。大学受験の小論文、面接対策でも、「1ミリでも許容するような発言はするな!」と教えます。それが今度は家庭にも入っていく。この正論はたぶん抵抗のしようがないんです。もし、家がアンタッチャブルなら、公的機関である児童相談所は、家に踏み込むことはできないし、そもそも、個人の思想が正しいなら、家がアンタッチャブルにはならないんです。愛があれば、教育に体罰が許される、なんていうことはあり得ないとすれば、家だって同じです。
そんな隙間があれば、そこが虐待につながるわけですから。
抵抗があるとするなら、まだ、日本では「家・社会・地域・国」的価値観が多少なりとも残っているからだともいえますが、一方でこうした価値観は急速に失われて、「個人」の方向に進んでいます。
考えてみればわかるんですが、
- ほめて育ててほしいと思っている。
- 見知らぬ他人に子育てに口を出してほしくない。
- 見知らぬ子どもを直接注意するのは怖い。
- だからこそ、公的機関にしっかりと管理してほしい。
ということになっている以上、明らかに「個人」の方に進んでいて、その中でも、「地域」とか、夫婦を越えた親戚とか祖父母といった「家」の単位は、今やおおきく「しがらみ」として敬遠されるようになっているわけですね。
でも、もしかしたら、一番小さな「家」という単位はまだ残っているのかもしれません。それがジョージを見ているときの、ちょっとした違和感であり、今回の法改正を聞いて「そこまでやるのかあ」という感慨だったりするのかもしれません。
でも、こういう方向に進んでいくことは、今や、どうすることもできない事実かも。そうなると、どうやって行くのか?
残念ながら、たぶん日本にはまだ、ジョージが地域で暴れたら、実際、家だけでなく、近所や地域や仕事場やレストランや幼稚園や学校や旅行先で、キュリオスしてくるわけで、そのときに「キュリオスだから仕方ないね」と許容する余裕はないんです。
だって、まだ、一番小さな「家」の単位が残っているわけで、きっと、「親は何をやってるんだ!」って話になるわけです。「しつけがなってない!」って。
新幹線や電車や公共の場で子どもが騒げば、親の責任が問われ、芸能人が不祥事を起こせば、親を直撃して謝罪させるわけですから。
もし、本当に「個人」の発想にいくなら、不祥事と親は関係ないし、騒ぐ子どもの近くに親がいるにしても、周りは「キュリオスなんだから、しょうがないよ。少なくとも親の責任ではない。だって、キュリオスな子どもと親は別の人間だからね」ってならないとやっていけません。
というわけで、日本は過渡期です。
進むことが正しいかどうか、ではなく、国際標準(繰り返しですが、アメリカ・ヨーロッパ標準)からすれば、そうなるしかないし、みんなの思想もそうなっています。
今のところ、親というか、核家族という小さな単位はまだ残っていて、だから、このニュースを聞くと、「う~ん」と思ってしまうところがある。それと同時に、この親以外がみなければいけない役割は、公的機関に委ねて安全地帯にいたいというのが、この社会の標準的な発想のようです。
そこをもうちょっと進めて生きやすいようにするとするなら。
それを埋めるとすれば、ボランティアの普及による、自分と社会のつながり、みたいなものが不可欠になるんですが、それはまた別の時に書きます。
ともかく、子育ては「キュリオス!」と、0歳児の弟や3歳児のお姉ちゃんが引き起こす数々の問題を、笑って許容してやろう、そのぐらいはまずは悪いことではないはずだ、と信じつつ、子育てをあくまでボランティア的にとらえて、それぞれの人生ということを早くから意識していこうと思う次第です。
とブログを書いているうちに、おねえちゃんのキュリオスによって、ティッシュペーパーがやまほど出されてきれいにしきつめられておりました。
キュリオス!想像力を発揮して素晴らしい!はあ。
黄色い帽子のおじさんも、言われてみればため息をよくついてますよね。