学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

学習の仕方に困ったことはありませんか?ここでは、「真似び=学び」という形で、さまざまな学習方法へのアドバイスをしていきます。学習の仕方に悩んだら、受験勉強で行き詰まったら、ぜひ訪れてみてください。効果的な学習方法を知って、学び続ける人を目指しましょう!

オハンロンへの手紙~「サンタさんはいるの?」あなたはどう答えますか?

クリスマスが近くなりました。今から100年以上前に、8歳のオハンロンちゃんという女の子が「サンタさんって本当にいるの?」とサン新聞社に手紙を書き、社説で答えるというエピソードがありました。

有名な話で、英語の教科書なんかでも使われているようですね。その後、オハンロンさんは学校の先生になったそうで、とてもいい話だと思います。

サンタクロースっているんでしょうか? クリスマス・ストーリー

なかなかいい話ではあるんですが、国語の授業のネタのひとつとして、このオハンロンさんに返事を書いてみる、という企画を持っています。

あなたなら、どう書いてみますか?今日は、そんな感じのお話です。この材料は、今か20年ほど前の授業で使った作文と私のコメント、それからそれを使った授業という3年分の授業のプリントから構成しています。

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さて、あなたなら、どんな手紙を書きますか?まずは、8歳のオハンロンちゃんにあなたが返事を書いてみるイメージを作りましょう。さて、どんな返事になるでしょうか?

 

「サンタクロースはいない・いるが姿を見せない」~現実をつきつける。

まずは、誠実にあろうとするかどうかですね。そうすると、どうしても「サンタクロースはいない」ということになるわけです。

もちろん、中には意地悪で、厳しい現実をつきつけるべきだと考える生徒も出て来ますが、むしろ、誠実であろうとすれば、嘘はつけない。軽はずみな返事を書けない。だから、なんとなく、いない側の返事を考えていくわけです。

現代社会の厳しい状況を訴える。「いなくなった」「いるけど入れない」

まず、バージョンとして考えられるのは、厳しい社会の現実です。

サンタクロースは本当にいるのさ。(中略)でも最近はトナカイが減った。
重いソリを長い距離引っ張ることができる足腰の強いトナカイがいないのさ。
だから遠出ができないのさ。そして何とかみんなの家についても今度は煙突がないのさ。サンタは家の中に入れないのさ。(後略)

まあね。要するに、サンタクロースがどうして姿を見せないかを社会問題として提起しようというわけです。「環境問題」と「治安」を問題にしているわけですね。

ある年には、「煙突がない」「玄関に鍵がかかっている」「セキュリティシステムがある」などというような諸問題をつきつけておりました。

実をいうとサンタクロースはいるのです。サンタクロースはいないという人もいるけどそれはその人たちは不幸にもサンタクロースに会えなかった人たちです。というのも、クリスマスの夜の6時間ほどでサンタさんは世界中の家を回ることはできないからです。特に最近ではえんとつのある家なんてめったになくなり防犯システムが発達してきたこともあって一晩でせいぜい百件ぐらいしか回ることが出来ないのです。だからごくごく少数の人たちにだけしかサンタさんの存在が分からないのです。しかもその少数の人だってサンタさんが来る頃にはぐっすり眠っていて、たまたまトイレかなんかで目が覚めない限り、サンタさんを見れないのです。つまり、結論をいうとサンタさんを見れるのは毎年一人か二人です。それから、ひとつ言い忘れてたけどサンタさんが見れるのは10歳までの子供だけなんだって。オハンロンちゃんが10歳までにサンタさんに会えるのを願っています。

「実をいうとサンタクロースはいるのです。」というのがショッキングです。「えんとつがなくなったから」というのも、サンタに会えない理由としてはよく出てきますが、防犯システムというのはなかなかです。しかも、6時間だの、100件だのといわれて「つまり、結論をいうとサンタさんを見れるのは毎年一人か二人です。」なんてやられるともう黙っているしかないという感じです。この根拠のない論理性の上に「サンタさんが見れるのは10歳までの子供だけなんだって。」などとくれば、8歳のオハンロンは何を思うのでしょう。あと2年と焦ったオハンロンが、家の扉という扉を開け放って泥棒を待つなんてことがないように、私は祈るばかりです。

まあ、サンタクロースにとっては住みにくい世の中です。まず、監視カメラかなんかにひっかかり、警察に呼び止められ、場合によってはソリを置いておけば、違法駐車でレッカー移動される可能性だってあるでしょう。

でもね、こんなこと書いたら、オハンロンちゃんが、家中の鍵をあけはなって、せっかくついているセキュリティシステムの電源を切って、サンタクロースではなく、泥棒を呼び込む可能性だってあります。

だから、書くとしたら、だいぶ注意しなければいけません。

 

キリスト教の問題にすり替えていく。「キリスト教の行事でしょ?」

次にみかけるのは、宗教が違うから、日本にはやってこない、というような答えですね。

サンタクロースの物語は聖ニコラスの伝説から派生したもの、元々は神話や民話と根を一つにしたものであり、それが年月を経るうちに一人歩きしたものと思われる。聖ヴァレンティヌスが処刑された日と同じように、西欧ではクリスマスはノエルの休日とも言われるし、北欧ではサンタクロースを名乗る人物がいる。これらは人々がサンタクロースを求めるためであろう。私はサンタクロースは神や悪魔、精霊や妖怪等といった人外のものだと思う。人々の口伝や想像によって伝説は変化するからだ。このサンタクロースは珍しく人間にとって利をもたらす者であろう。信じるとすれば存在するし、信じないとすれば存在しない。人外の者だからだ。

そうなんでしょうけど、でもさ、いるか、いないかが問題なわけで、だから、聞いてるんですよ。オハンロンちゃんは、きっと「そうか。人外の者だったのね。」と納得なんかしないで、いるの、いないのとまた聞いてくるわけですよ。だって、神様だって、天使だって、吸血鬼だって、みんないそうじゃないか。サンタクロースはプレゼントまでくれるじゃないか。でも、いないっていう子がいる。だから気になるんですよ。
まあ、最後を「だからいない」とやらずに、「信じればいる」としたあたりに優しさを感じます。 

 クリスマスの起源を語るものもありました。いわく、「クリスマス・ミサ」の略なのだ、とか。あるいは「異形の者」なのだ、というのもありました。異世界のものであり、それはネッシーとか、神とか、そういう類いのものだからとか。

…だから?

いやいや、8歳の子にとって、お化けや妖精はいない、人間はいる、神はいる、いや、いない、なんて関係ないじゃないですか?

さすがに、サンタクロースがぼくらと同じ人間でないことぐらいはなんとなく知っている。でも、宇宙人だって、神様だって、お化けだって、ミッキーマウスだって、いるかどうかはわからないって思うから、彼女はクラスメイトと議論してるんですよね。だから、それを教えても大事なのは、いるかどうか。

キリスト教信じてなければ、来ないってかかげるけど、信じてたら?あるいは、仏教的な存在は代わりにやってきてくれないの?

まあね、クリスマス一人で過ごすのはさびしいから、ケーキに、チキンに、クリスマスツリーにっていうイメージを憎みたくなるのはわかりますが、もし、まんじゅうに、寿司に、門松にってやったとするなら、さすがに許してやらないといけないような気がします。それでも、許さないとしたら、あなたが寂しいから憎んでるだけですよ。

サンタクロースは「親」であると告げる。

こうなると、「いない」と言い切る生徒もでてきます。

プレゼントはあなたとサンタクロースを結び付ける唯一の代物なのです。
ですから、私はプレゼントがもらえるんのならばきちんとサンタクロースはいるのだと思います。しかしもらえない年やもらえなくなる年齢にあなたがなる時がくるでしょう。その時はきっとサンタクロースはいないのです。(後略)

要は、大人になるともらえなくなるという感じで伝えています。要するに「いない」ことをにおわせる。

「プレゼントはあなたとサンタクロースを結びつける唯一の代物なのです」という入り方がすごく即物的。ここに親をあてはめると、「プレゼントはあなたと親を結びつける唯一の代物なのです」となって、怖いです。

どうしようもなくなると、こんな一行の返事もありました。

イブの夜に待ってみてごらん。きっとサンタクロースに会えるよ。

一見格好いいですが、たぶん眠らずに待って、寝たふりをして出会うのは親ですから、ある意味、かなり残酷な意見のような気がします。

いわく、「親である」と。プレゼントを置いているのは「親である」と。これもひとつの真実の形ではあります。ぼくらはそうして大人になったのだから。

8歳、オハンロンちゃんがそういうタイミングにさしかかったなら、それもしょうがないでしょう。でも、もしこれがサン新聞の答えなら、衝撃です。新聞紙上で、みんなに向かってサンタはいないよって発表することになりますから。

なので、どうしても、サンタクロースはいる路線で考えていくのが妥当なようです。

夢はつぶさない~「サンタクロースはいる」

というわけで、サンタクロースがいると言い切る路線を考えてみましょう。

「いい子」にしていれば、サンタクロースはやってくる。

王道はなんといっても、これですね。

これはとても難しい質問です。私も君くらいのときには、サンタクロースにプレゼントをもらったことがあります。だけど、このような疑問を持つというのは、実際に見たことがないから「いないのかもしれない」と思ってしまうのでしょう。じゃあ、サンタクロースが現れるまで起きていたら会えるのかもしれない。でも、サンタクロースは恥ずかしがりやなのか、なかなか姿を現してくれません。そんなサンタクロースが自分のことを信じてくれない人のところに、わざわざプレゼントをわたしにくるでしょうか。お父さんお母さんがいうように、サンタクロースはいい子にしている人にプレゼントを持ってきてくれるのです。だから、君がサンタクロースを信じ、いい子に毎日を過ごしていれば、一度くらいは姿を現してくれるかもしれないよ。

「信じていること=善」「信じないこと=悪」。

で、「いい子にしていればプレゼントはくる」「いい子にしてれば会えるかもしれない」とまとめるわけですね。全国に、どれだけこうした言葉によって、言うことを聞かされている奴がいることでしょう。逆にいえば、「誰がいい子かどうか決めるんだ?もしかしたら親?」というように、親がサンタクロースだと気がついていくのかもしれません。

でもね。「信じていれば会える」って嘘ですよね?いい子にしてれば会えるって嘘ですよね。じゃあ、悪い子だから会えないことになりません?これってかわいそうです、やっぱり。もし、プレゼントが用意されないご家庭があって、その子が悪い子だって、やっぱりかわいそう。これも、ちょっと新聞の答えとしては苦しいですね。

サンタクロースはいるよ。とにかくね。

しんあいなるオハンロンちゃんへ
私もあなたと同じように小さいときはほんとうにサンタクロースのおじさんがいるのかどうかよく考えたものです。プレゼントがほしくて枕元にあるタンスの引き出し一面に靴下をかけておいたこともありました。夜寝ないで姿をつきとめてみようと思ったこともあありました。あなたもきっとそうだと思います。でもサンタのおじさんの姿を見たことはありません。きっと世界中の誰もがそうだと思います。サンタのおじさんは恥ずかしがりやさんなのです。きっと、面とむかって世界中の人たちからありがとうといわれるのがはずかしいのでしょう。だからみんなが寝たところを見はからってプレゼントを赤い鼻のトナカイに引っ張られてあちこち置いていっているのでしょう。心配することはありません。きっとクリスマスの夜にはサンタのおじさんはプレゼントを届けてくれますよ。

出ると思いましたけどね。見えない理由を答える必要があるのはわかります。うまくごまかさなければいけないしね。だから、「恥ずかしがり屋」なんです。出ると思いましたけどね。
でも、タンスの引き出しに靴下がかかっている光景はちゃんと思い浮かべると泥棒に入られたみたいで結構笑えます。
それともしオハンロンの家が貧しかったらと思うとちょっと心配です。

サンタクロースは、オハンロンちゃんと違う世界に住んでいて、僕たちが住んでいる世界と違っていて、いろんな物があって、争いもない平和な世界なんだ。サンタクロースは一万人ぐらいいて、65歳以上のおじいさんなら誰でもなれるんだ。毎年12月24日になると、サンタクロースが地球の子供たちの願いを叶えようと「しあわせ」を運びに、僕たちの世界にやってくるんだ。オハンロンちゃんも、12月24日に会えるんじゃないかな。実は、サンタクロースは僕たちの目には見えないんだよ。ある人の姿を借りて、プレゼントをくれるんだ。ある人というのは、僕たちの身近にいる人なんだよ。僕も実はサンタになったことがあるんだ。

衝撃の告白です。知らなかった事実がここに!!
   発見① サンタクロースは65歳になると誰でもなれる。
   発見② 一万人以上いる。
   発見③ 宇宙人である。
   発見④ ということはおじいさんは宇宙人になれる。
   発見⑤ しかも、透明人間である。
   発見⑥ ということはおじいさんは透明人間にもなれる。
   発見⑦ ということは宇宙人は透明人間であるかもしれない。
   発見⑧ おじいさんはだれかに乗り移る力を持っている。
   発見⑨ そんな人が一万人もいる。
   発見⑩ しかも、あなたはおじいさんで、宇宙人で、透明人間で超能力者である。
正直、驚きました。しかも、おじいさんで、宇宙人で、透明人間で、超能力者な人がいくら一万人いるとはいえ、「会えるんじゃないかな」はひどい気がします。私は無理だと思います。

ジングル=ベル ジングル=ベル
鈴が鳴る
森の泉に 光の輪が舞う
ジングル=ベル ジングル=ベル
鈴が鳴る
森に林に 響きながら
サンタクロース は夢の神様なんだ。イエス様ってキリストでしょ♡でも、とっても遠くにいるから見えないよね→♡サンタクロース☆もおんなじなの。サンタクロースってね、夢の国の神様なの。イエス様もお空にいるように、サンタさんも夢の国にすんでるんだよ。夢の国ではね→、サンタさんがトナカイさんをたくさん飼ってるんだよ。トナカイさんたちはね→緑いっぱいの牧場にすんでいるの。それでね→、お日様が真っ赤に輝いているんだ。だからさ→クリスマス♡の時って、町を赤や緑に飾るだろ☆あれはね、私達人間がサンタさんやトナカイさん☆の世界とね、同じ世界をつくって、こちらに呼ぼうってわけ♡何で12月25日に来るか知ってる?夢の世界ではね、サンタ語っていうのがあって、クリスマスっていうのは「プレゼントの日」という意味なんだ☆だからサンタさんは、この日は大変なんだよ。じゃあ、それ以外の日って何をしてると思う?夢の国では、大きな”おもちゃの木”っていう木☆がたくさんはえてるの。で、トナカイさんたちはいつもそれを集めて袋詰めしているんだよ。ね→サンタさんについてよ→くわかっただろ♡
でも、最後に一言付け加えると♡このサンタさんの夢の国を知らない怖いお兄さん、お姉さんが君の周りにいるんだよ。その怖→い魔法♡を受けるとね→、記憶が飛ばされちゃうから気をつけるんだよ。大人は魔法使いだよ。現実という名の魔法を使う腹黒い、怖→い人なんだ。ずっと子どもでいられたらイイネ☆嘘と本当、時には嘘が正しく、本当が間違いの時だってある。

そういわれても、ここまで嘘をついていいのか!!赤と緑は、ひいらぎとかポインセチアのはずだし、クリスマスはchrist masでキリストのミサって意味のはずだし、でも、そんな知識をひけらかすと、腹黒い魔法使いにされてしまうのだろう、きっと♡
最後に「現実という名の魔法」を持ってきたかったってことだとは思います。最後が言いたいことでかくしたんですよね。ちなみに一番受けたのは、「イエス様ってキリストでしょ。」ですね。これは「山田って太郎でしょ」とか「先生って山田でしょ」とかそんなことだと思うんだけど。

 

サンタクロースは、恋人だったり、家族だったり…

うん。この広~い世界のどっかにサンタクロースはいるんだよ。だからオハンロンちゃんがサンタさんのこと疑っちゃかわいそうだよ、サンタさんが。だって今も、オハンロンが気づかないところで今年のプレゼントを選んでいるかもしれないんだよ。
オハンロンはサンタさんってどういう人だと思う?赤い服に赤い帽子、白いホワホワつけて白くて長い口ひげ、そしてトナカイとソリに乗ってると思う?でもね、オハンロンには特別に本当のことを教えてあげる。そのサンタさんはサンタさんの神様みたいな存在で、もっと他の、違うサンタさんがいっぱいいるんだよ。
サンタさんは12月になるととっても忙しくなるけど、一年中いそがしくって、春はピクニックしたり、夏は海行ってサーフィンしたり、秋は焼き芋食べたり、冬はスノボしたりしてるんだよ。他のお仕事も持ってて毎日頑張ってるんだよ。だからね、オハンロンも素敵な女の子になろうね。

そのサンタクロースは髪が長くて茶髪で、ピアスをして、だぼだぼの服を着ているので私は好きではありません。唯一、共感できたのは焼き芋を食べていることだけです。でも、それも秋に何をしているか分からなくて、必死に探した感じがするので、きっと一番どうでもいいことの気がしてやるせないです。オハンロンちゃんが、髪を染めて、携帯持って、コンビニの前で座り込んでいる姿を想像するともっとやるせないです。でも、きっとそんなことを考えるのは私が腹黒い魔法使いだからです。反省します。

サンタさんは、います。世界中にたくさんいると思います。クリスマスにプレゼントをくれるのも、雪を降らせるのもサンタさんなのです。恋人同士が幸せになるのも、家族が楽しく過ごせるのもサンタさんのおかげです。けれど、人によって見えるサンタさんの姿は違います。それも、サンタさんの力なのでしょう。私のサンタさんは、甘い甘いケーキでした。今は秘密です。
さて、あなたのサンタさんは何ですか。たとえ今は見えなくても、あなたがほんのちょっとでも幸せなら、それはサンタさんのおかげなのです。ほら、そこに一人。

なかなかおもしろい。幸せという抽象的な物に置き換えるのはいいですね。よくをいうなら、なぜ、サンタクロースが幸せを運ぶのか、考えると良かったかも。それと、ケーキと言われると具体的すぎて、サンタクロースの形をしたケーキにかぶりつきたくなるのは腹黒い魔法使いの私だけですね

 (前略)
 もみの木をみんなで飾って、ライトをつけて、家族みんなで食事をする。
葉も落ちてしまった季節に、ランプの花が咲いているのを。雪の降る冬に、寒さを忘れさせるあたたかさを見つけることができるはずだよ。
 人のあたたかさは素晴らしいものなんだよ。まだ君にはむずかしいかもしれないけれど、いつか分かる日がくるよ。そして、その時、サンタクロースからの贈物がどんなにすてきなものか、サンタクロースの偉大さがきっと分かるんじゃないかな。
    心の中のサンタクロースは永遠の宝物だよ。

プレゼントは、目に見えるものじゃない、といいたいのでしょうね。クリスマスのうきうきした雰囲気で十分だと、そういう気持ちは分からないでもありませんが、それを子供に伝えるのも一苦労です。

家族こそがサンタクロースで、家族といることこそがクリスマス…。いないけれど、いるっていう感じになっていきますね。

サンタクロースは居るよ。
居ると思えば、居るよ。
サンタクロースは透明だよ。
信じる子には見えかくれ。
信じない子とはかくれんぼ。
子どものところにしかきてくれないんだよ。
大人のところにはきてくれないんだよ。
私も昔は見えてたよ。
今はもう見かけないけどね。
オハンロンちゃんも見るがいい。

ps
パパやママがプレゼントを靴下の中に入れてたりするかも。
でもね、パパとママはサンタさんの代わり。
てゆーか、パパとママのオハンロンちゃんへの気持ちも、
プレゼントかもしれないね。

 いいんですけど、かわいくて。やさしくて。PSのあとは、フォローしようという気持ちがうかがえますが、むしろ、ばらしてしまっている気がするのは私だけ?それと「見えかくれ」と「かくれんぼ」の差がねえ。なんかどっちも見えるような、見えないような。それにさ、透明だと言いながら、私は見たって言われると、びっくり人間大集合を見ている人がびっくりさせるみたいな複雑な感じがします。
しかも「オハンロンちゃんも見るがいい」。透明人間みろって言われても。
技術的には最初の三行なくして、「見えかくれ」を見えるという言葉にしたほうがいいかなあ。

あなたの年齢に合わせて、「サンタクロースは変わるんだ。今はわからないかもしれないけど、あなたはあなただけのすてきなサンタと出会うんだ」なんていう感じもあるんでしょうね。

でも、ここまでやられるのと、そう簡単に恋人と過ごすクリスマスがやってこないぼくらとしては、非常にやっかみが入ってきます。そうね、あなたの描写からすると、ぼくらはサンタにはなれそうにないね、特にあなたのサンタには…と毒づきたくなります。

 そう、だんだんと信じる気持ちが問われてきます。

 

いるか、いないかは君次第。「信じる気持ち」を要求する。

私があなたぐらいの年齢の時には、クリスマスといったらやっぱりサンタさんが待ち遠しかったです。でも本物のサンタさんは一度も見たことがありません。朝になったらプレゼントがちゃんと置いてあってとても嬉しかったけれど、サンタさんの姿だけはどうしても見れなくていつも残念がっていました。私は大きくなってからサンタさんについて知ったことがあります。それはあえてこの手紙では書かないけれど、きっとみんなのサンタさんは毎年プレゼントをあげるためにどこかで忙しく頑張っているのだと思いますよ。

いるともいないとも言わず、ただ見ていないことだけを伝える。うそをつきたくないという、その気持ちが伝わってきます。一番最後も「頑張っていると思います。」ですから、言い切っていないわけですね。でも、真摯な姿勢が出すぎて「あえてこの手紙では書きません」と言われると、「サンタさんについて知っていること」って何?と考えると私は夜も眠れそうにありません。それが聞きたいのに、知っているなら教えて!!というオハンロンの声が聞こえるようです。

サンタクロースは神様です。あなたが信じていれば、あなたのもとへやってくるでしょうし、信じていなければやってきません。サンタクロースはあなたの心の中にいるのです。

 出だしが「お客様は神様です」を思わせますが、「信じれば救われる」あたりは確かに宗教です。サンタ教とでもいうのでしょうか。でも、最近のお祭り騒ぎを見ていると、キリスト教とはまさに無縁です。

このバージョンの象徴みたいな感じです。

あなたはサンタクロースに会ったことがないみたいだね。でも、それは当たり前のことで、誰もサンタクロースを見たこともないんだよ。サンタクロースはね、遠い、遠い北の国に住んでいて、クリスマスのときだけ、あなたのような子供たちにプレゼントを持ってきてくれるの。でも、サンタさんって、いつもあなたが夢を見ているときに、こっそりやって来るから会えないんだよね。それは、恥ずかしがり屋だから。あなただけでなく、みんなに姿を見せてくれないから、少し淋しいね。だけど、サンタクロースってどんな人だろうって想像してみて。あなたが想像したサンタクロースはあなただけのサンタさんだから。それからもう一つ、いいことを教えてあげる。サンタクロースに会えないからといって疑ったりしないでいつもサンタさんを信じていれば、あなたが大きくなってからもずっとずっと素敵なクリスマスを送れるはず。だから、純粋な気持ちを忘れないで下さいね。

「恥ずかしがり屋」だから、姿を見せないと進めています。後半は、自分が親になったときのイメージですね。「サンタがいると思っていれば、こういうすてきなクリスマスを子どもと過ごせるよ」っていう感じでしょうか。

でも、ちょっと苦しいですよね。普段姿がみることができないのは、「遠い北の国」とか「プレゼントをあげる時だけ」とかで説明できますけど、クリスマスの時ぐらいは、姿が誰かしら見そうなもんじゃないですか?子どもの視点からすると「見れないのは、信じてないから?」といい子作戦と同じような感じになる危険もあります。

  あなたは友達を大切にしていますか?友達を信じていますか?お父さん、お母さんを信じ、大切にしていますか?
 あなたは実際にサンタクロースを見たこともないし、ましてや気配すら感じたことがないと思います。だからあなたはサンタクロースはいないのかしらと思うのかもしれません。私も見たことがありません。しかし実際に存在を感じることはできないけれど、あなたが友達や両親を信じ大切にするようにサンタクロースを信じ、大切にすればあなたの心の中にサンタクロースは存在するのです。あなたと同じように友達を信じ大切にする子供たちの心の中に住んでいるのです。友達にたずねてごらんなさい。「サンタクロースってどんな人?」って。きっとみんな、ひげをはやした赤い服のおじいさんと答えるでしょう。これはみんなの心の中にサンタクロースがいることの表れです。もしいなければ、みんなちぐはぐな答えになってしまうでしょ?信じる心をもってください。目には見えなくても、サンタクロースはいるのです。
きっと今ごろトナカイに乗って雪の舞う中を走っているはずです。

信じる心を言うのは同じですが、そこに友達や両親を絡めているのが教育的です。暗に、サンタはお父さんなんだよ、と示しているような気がします。
サンタを信じる心と友達を思う心、やっぱり道徳的ですね。

サンタクロースは本当にいます。でも、ほとんどの人は見たことがないはずです。あなたもきっと会うことができないでしょう。それは、必ずしもサンタクロースはプレゼントとして物を届けてくれる人ではないから。他の物の場合だってあるのです。だって、あなたは一年に一度のこのクリスマスを楽しみにしてしているでしょう。ひとりぼっち寂しく住んでいるだって12月25日がクリスマスであることを忘れることはないはずです。それがそもそもプレゼントなのです。「今年もまたクリスマスがやってくる。」そう思った瞬間にわき上がる気持ちは、大切な贈り物です。だから、その贈り物はこれからも大切にしてください。そうすればきっとその贈り物は来年はもっと大きな物になりますよ。

なかなかいいですね。もっと明確に「わくわくした気持ち」というぐらいまで行ってもいいかなと思います。それと最初の「それは、必ずしもサンタクロースはプレゼントとして物を届けてくれる人ではないから。他の物の場合だってあるのです。」はなくてもいい。あとで「わき上がる気持ち」と出した方が生きますね。あとは、普遍性を持たせること。そのわくわくした気持ちは、いつもの生活をどう変えていくのか。そんなことがあるともっと深くなる気がします。

(前略)でも、実際いるかいないかなんて誰にも分からないことです。みんなのいう、赤い服を着てトナカイの引くそりに乗ったサンタクロースは、もしかしたら本当にいないのかもしれません。でも赤い服ではなく別の格好をしているのが本当のサンタクロースで、私たちの知らないところに住んでいるのかもしれない。(中略)だから、サンタクロースがいないと言われたからそう信じるのでなく、自分の気持ちを一番大切にした方がいいと思いますよ。

そうなってくれば、手があります。分からないものは分からない。こうなれば、反論のしようがありません。賢い作戦です。で、自分の気持ちを大切にすることを説く。実は、実際のサン新聞の答えもこうした答えの延長線上です。

信じることを大切にしなさい。目の前に見えるものだけが真実ではない。見えていないけど大切なものもたくさんあるんだ。どうかそれを見続ける今のココロを忘れないでほしい。こんな感じです。

サンタクロースっているんでしょうか? クリスマス・ストーリー

オハンロンちゃん、サンタクロースは本当にいるよ。でもね、サンタクロースは心から自分の存在を信じてくれる人の前にしか、姿を現さないんだ。信じてくれる心はあたたかい炎に包まれているけど、疑いの心は寒さをいっそう増大させるだけだから。サンタクロースだって、あたたかさを求めているんだよ。あなたが、お父さんやお母さんからもらっているあたたかさ、つまりそれは一言で言うと愛なんだけど。でも、今は心のあたたかさで理解してほしいなあ。そのあたたかさをあなたには大切にしてほしいなあ。わかるよね、その感覚。そして、それをサンタクロースに分けてあげよう。さあ、クリスマスが楽しみだね。きっとあなたはサンタクロースに出会えるよ。あなたがサンタクロースに出会えることを願っています。

うまい。サンタのプレゼントを「あたたかさ」としました。寒さと対比させたのもなかなか詩的です。でもね。いるって断言して、信じていれば姿を現してくれて、「それをサンタクロースに分けてあげよう。」なんて言われたら分けたくなっちゃうじゃないか!!でもさ、出会えないよね。そこがちょっと心配。

昔、クリスマスの前夜に、人々の家に金貨を投げ入れていた、セント・ニコラスという人物がサンタの前身であると言われているそうです。しかし、現在、人々に金貨を与え回る人なんてもちろんいないし、赤い服を着て長いひげがあるおじいさんがトナカイと一緒に空を飛んでいる姿も見られません。それでは、サンタクロースはいないのかというと、本当のことはわからないけれど、私はいると思います。というよりいると信じています。
年に一度のクリスマスが近づくと、サンタクロースのことを思い出さない人はいないでしょう。私の周りにも、寝ているときにサンタに足を踏まれたという思い出を、毎年語る人がいます。そして、みんなが思うのは、オハンロンと同じように「サンタクロースはいるのかしら」ということです。誰もが「いる」「いない」どちらかを信じているのです。こうやってすべての人々の心に深く、長い間とどまっていられるサンタクロースは、確かにいるのです。一人一人にある信念を起こさせるような存在ですから、必ずどこかにいるはずです。
確かにいるのですが、その証拠というものは誰も確かめられません。例えば思い浮かべてみてください。冬に着るふわふわのセーターは、暖かくて、一本の毛糸からできているようには見えないでしょう。でも、それはセーターをほどいていけば、一本の糸からできていることがわかるのです。サンタクロースがいるのかという疑問は、糸をたどっても、解決につながらない不思議な糸なのです。セーターの作りはわかるけれど、サンタクロースの不思議はわかりません。でも、サンタクロースは、セーターと同じように冬に暖かさを与えてくれます。みんなが冬になるとサンタクロースのことを考える限り、必ずサンタクロースはどこかにいるのです。

力作です。考える限りいるというフレーズはなかなか生きています。ちょっと話が込み入ってしまったところもあるけれど、でもいいですね。考えること。そうする限りサンタクロースはいる。そして私の答です。

で、実際に、当時の生徒に私が書いた返事。今から20年前の話。

 さて、私の話。とりあえず、今から10年ほど前の授業で配ったプリントをそのまま乗せます。前半が私の作文、後半がその解説です。

 サンタクロースが本当にいるのか。とても難しい質問です。私も今まで、ずーっと考えてきましたが、やっぱりよくわかりません。
 「いい子にしているとプレゼントをもらえるよ」と言われて、家の手伝いをして頑張ったこともあるけれど、それでもプレゼントがないことだってありました。そんなふうに考えるといないのかなと思うこともあります。でも、そんなんでなしに、それは本当はいい子じゃなかったのかもしれないし、サンタクロースはいるような気もします。
 「サンタクロースはお父さんやお母さんなんだよ」という人もいます。確かにお父さんやお母さんがプレゼントをくれるときもあるから、いないのかなあと思うこともあります。でも、それはサンタさんが忙しくて、頼んだのかもしれないし、だからいても不思議はありません。
 見たことはありません。「見たことがないなら、いないんだよ」という人もます。でも、それだって、たまたま運が悪いだけかもしれないし、いつか見ることができるかもしれません。見たことがないと不安になって、いないのかなと思うこともあります。
やっぱりよくわかりません。
 でも、私は思うのです。きっと本当のことなんて誰にもわからないのだと。証拠とか、理由とか、いろいろな人が、いろんなことをいうけれど、きっと本当のことなんて誰にもわからないのです。

 証拠がないこともある。証拠がたくさんあって、いろんな本当のことがあることだってある。

 あなたが大きくなると、きっとたくさんそういう出来事に出会います。なにが正しいかわからないことも、正しいことがないような気がすることも、いろいろな正しさがあるような気がすることも。でも、あせってはいけません。だれかのいうことをただ信じて、正しいことを見つけてはいけません。その人が正しいなんて保証はないのです。でも、だれかのいうことに耳を貸さずに、自分だけが正しいと思ってもいけません。自分が正しいなんて保証もやっぱりないのです。
 私があなたにできるアドヴァイスは、そうやっていつまでも疑問を持ち続けてほしいという、ただそれだけです。簡単に答をみつけないで、簡単に答をあきらめないで、いつまでも、その疑問を持っていてほしいと思います。そうすることで、あなたはきっと素敵な未来を作っていけると思います。あなたのように、サンタクロースがいるのかなあと考えてくれる子どもたちがたくさんいる素敵な未来ができあがると思います。
 だから、あなたがサンタクロースがいるのかなあという、その疑問をいつまでも持っていてほしいと私は願います。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれません。でも、そういうことから逃げずに、うんうんと考えながら過ごしていく、そんな人になってほしいなあと、私は思います。

 

<解説>

返事になっていないですね。しかも8歳の女の子相手に酷なことを書いています。でも、本当にそう思うのです。そして、もちろんこれは君たちへあてた手紙です。きっとこれからいろいろなことにぶつかる。でも、世の中の多くのことは、答がないのです。どうすればよいかわからない。そして、それに自分が答を出すしかないのです。答がないというのはあきらめでも、絶望でも、妥協でもありません。そこが出発点となって、全てが動き出すのです。
 というわけで君たちの前途が明るいことを祈ります。いえ、もしかしたら多くの困難がある方が君たちの人生は実りが多いかもしれません。どんなに簡単に人生を生きようとしても、それは不可能な話ですから。
 とりあえず、受験という困難を乗り越えることを祈ります。
では。

 さて、この授業は今から、〇年前、小論文の授業で行われたものです。気がつけば、その時の生徒と同じ学年の、君たちの授業も終わろうとしています。いろいろ考えてみると、最後のメッセージが、君たちには伝わりにくい気がします。なので、詳しく書いてしまおうと思います。
 世の中には理解できないこと、理解しえないことがたくさんあると私は思います。たとえば、あなたが誰かを好きになる。あなたはその人を理解しようとする。けれど、どんなに素敵な関係を続けていっても、あなたは最後まで、理解し得ることはないでしょう。求めれば求めるほど手に入れられない事実に突き当たるはずです。でも、だから人を好きになることに意味がないのではない。何より恋愛というものは理解しえないものへの憧れであるような気がします。
 残念ながら、世の中は理不尽なことばかりです。論理では説明できないこと、納得のできないことであふれています。ゲームや、勉強や、権利や、資本主義や、デジタルで平等で論理的な思考にならされてしまった私たちは理不尽なことが嫌いです。けれど、世の中は理不尽です。そして理不尽だからおもしろい。ちょうど、好きな人を最後まで理解し得ないからこそ、恋愛という価値が生き続けるように。
 不可能の可能性、という言葉を使うこともあります。祖国なき独立戦争、という比喩を使うこともあります。答えがないというのは絶望ではありません。理解できないというのは絶望ではありません。全てはそこから始まるのです。答えもなく、理解しあえることもなく、そのことを知りながら努力すること、そう、絶望の中の希望、希望の中の絶望という言葉を使うこともあります。自殺する青年も、引きこもる青年も、宗教に走る青年も、実は抱えている問題は似ていると思っています。そして、私たちも。けれど、私たちはそうはならない。それは、絶望を抱えながらも求め続ける強さがあるからです。強さというのは戦うことです。そして、何と戦っているかといえば、それは結局自分なのだと思います。強さというのは、勝つことではなく、負けると分かりながら本気で勝つことを信じて戦うことであり、だから、戦う相手が何であろうと、結局、自分との戦いなのです。
 戦えば傷つきます。だから、あなたが傷ついているとすれば戦っていることの証かもしれません。できれば、正しく戦ってほしいけれど、それができなくても、自分との戦いが意識できれば、それはそれで仕方ないのかなと思ったりします。
 というわけで、私は「世界に一つだけの花」が嫌いです。もし、この歌が許されるとすれば、それは戦って傷ついて負けた人にだけだと思います。戦わない歌は嫌いです。戦わない自分を肯定する歌は嫌いです。「がんばっているのだから「がんばれ」って言わないでほしい」ということまで、言われる時代がやってきています。励まそうという気持ちは分かるけれど、励ますことまで相対化されたら、私たちは立ち止まるしかありません。
 傷ついた人がいる。声をかけたい。「がんばれ」と言いたい。けれど、「がんばれ」と言うことも許されない。がんばる必要はない。けれど「がんばらない勇気」なんていう言葉も出ている。「正しくない」ということだけがさも正しいかのように与えられて、私たちは他者に対して関わる機会を失っていく。そして、唯一与えられるのが、「ありのままの自分」という価値観だなんて、言い訳にしか聞こえない。そんな馬鹿な話はないと叫びたい。世界の中心で愛を叫ぶというのも、今年の流行でした。愛、という価値観がこんなにも大手を振るうのも、他の価値観が相対化されて正しいことがなくなったからです。他者との接触につかれて、自分にこもって、愛を叫んでみたところで、結局、愛でさえ理解し得ぬ他者であり、そして他者との関わりの中から逃げることができない以上、結局私たちはありのままの自分で満足しろという価値観の中にいるのにすぎないのかもしれません。
 正しいことが何なのか。人を手助けするのか。それともしないのか。ありとあらゆるものが相対化された、そんな袋小路に私たちは追い込まれようとしています。そんな私たちに「オンリーワン」は甘い言葉です。けれど、私は思うのです。戦って傷ついて「世界に一つだけの花」を聞いたら、また、絶望の中の希望の戦いに、不可能の可能性を求める戦いに旅立ってほしいと。だから、どちらかというと、私はブルーハーツのように「がんばれ!!」と、中島みゆきのように「ファイト!!」と叫んで君たちを送り出したいと思っているのです。両方、ファンてわけでもないけどね。
 というわけで、話が訳が分からなくなったところで筆をおきましょう。なんだか自分の書いた脚本の解説のようなところもありますが、結局はどれも同じ話です。で、そこまで、書いてしまうと、そうやって戦って傷ついた時には「がんばれ」なんていう言葉をかけるよりは、消えゆく流れ星を、消えゆき決して蘇らない言葉を、果たされぬ約束を、信じることだと、そんな強さを持ちたい、持って欲しいと思ったりはしています。
 では。がんばれ!!いつかまた、いろいろな話をしましょう。

当時の私が好きだった第三舞台に感化されたような言葉が多くて、消し去りたいのですが、あえてそのまま使います。

クリスマスになると、この授業を思い出します。本当はこんなことをまたやりたいなあ、と思いながら、歳をとった私はこっぱずかしくて、なかなか授業ができません。

でも、こうやってブログを書いて、もう一度やらないとだめかもなって思います。どんなにこっぱずかしくても。

国語のブログか、学びのブログか、どっちに載せるか迷って、こっちにしました。メッセージは、学ぶことだからです。

というわけで、メリークリスマス!あなたにもサンタクロースがやってきますように。