このブログのタイトルは「真似び」、つまり、「学び」ですね。では、学びとは果たして何なのか考えてみたいと思います。もし、あなたが、子を持つ保護者だとするなら、学ぶことの意味をどう語りますか?そして、あなたが、生徒、学生であるとするなら、どうして学び続けますか?
勉強と学び~勉強ってつまらない
勉強は好きですか?
なかなか勉強が好きだとは答えられないですよね?でも、成績のいい人って、意外と勉強が好きなんですよね。
そんな風に考えると、なんだか、遺伝というか、才能というか、勉強が好きじゃない時点で勝負が決まってしまっているような気がしますね。
でも、本当にそうなんでしょうか?ちょって考えてみましょう。
たとえば、私がなにがしろの権力をもったとして、あなたの大好きなもの、そうですね、たとえば、鉄道であるとか、アイドルであるとか、音楽であるとか、スポーツであるとか、ゲームであるとかを、今ある学校の科目と入れ替えるという政策をうつとします。私の学校では、まじめな生徒が「そんなことをしたら日本が滅ぶ!」と答えたりするので、一応、滅ばない、ということにしましょう。
安心して好きなものを学校で学んでもらうとしましょう。
さあ、どうですか?この政策に賛成してくれますか?
「だったら賛成!」
って思った人。
私は、勉強がなくなるといったのではありません。
「あなたの好きなものが勉強になる」と言ったのです。意味がわかりますか?
あなたの好きなものが毎日学校で教えられるのです。ということはテストにもなるのです。テストになるということは、他人と成績で比べられるのです。塾に通って、好きなものの成績をあげなければいけなくなるのです。そうすると親は「なんでこんなこともわからないの?」とか「毎日2時間はしないとだめって言ってるでしょ!」と言い始めるのです。本当に楽しいでしょうか?
好きなもののテストの成績が出て、偏差値が出て、他人と比べられる‥
スポーツやピアノをやった人はなんとなくわかるのではないでしょうか?好きで、楽しくて始めたことが、結果を求められたり、毎日の練習を強いられたり、成績がともなわなかったりするうちにだんだん楽しくなくなってしまったこと。
もちろん、それでも好きで続けていく人もいますが、のちのちまで続けていく人は、次の二つですね。
ひとつは、成績が残せてプロフェッショナルになっていく人。
そして、もうひとつは結果を求めず、気長につきあっていく人。
勉強は、結果が求められますから、前者でやっていくしかない。でも、結果は出ない。だから、いやになってしまうのも当たり前かもしれません。
でも、本当の問題は「強制されること」「結果を求めること」の二つのような気がしてなりません。
こうしてみると、「ゲームばかりしている子」に対する対処は、ゲームをさせないことではなく、以下のことだと思います。
- 毎日、必ず決めた時間、同じゲームをしなければいけないこと。
- ゲームの結果を記録し、目標を設定すること。
- 目標を決めて、うまくいかなかった原因を分析すること。
- うまくいかなかった原因について、指摘し、練習させること。
- 以上のことを投げ出したときに叱責すること。
- それでもなお、やめさせないこと。
これだけのことで、結構な確率で、ゲームを嫌いになれると思います。まれに喜ぶ子もいますが、現代では「eSPORTS」もあるわけで、そんな世界では、本当に今上に書いてあるような世界に突入しているわけです。もちろん、スポーツと一緒で、みんな最初は勝てると思って取組み、その間は楽しく練習できるわけですが、自分の実力を思い知らされるうちに、撤退するわけです。
このやり方には、気づくまで相当の時間がかかりますが、たいていの子は、同じゲームを毎日必ず親に見張られて、ケアレスミスを注意されながらやる時点で、いやになっていくはずです。
とはいえ、違うゲームをはじめてしまうかもしれませんね。
そうなんです。自分でやりたいことをやる。それが楽しい。やらされるとつまらない。
小学校に入る前の子供たちは喜々として字を書いたり、絵本を読んだりします。それが、学校に入るとつまらなくなる。遊びが勉強になった瞬間が、学校が始まるということなのかもしれません。
世界の大きさ~想像力=言葉=知識の深さ
世界の大きさってどれくらいだと思いますか?
言葉であらわしてみてください。
きっと「地球」とか「宇宙」とか、そういう言葉が浮かびますよね?でも、地球なんて外から見たこともないし、宇宙なんて行ったこともない。それなのに、ぼくらは、平気でそうやって答える。
それは、言葉を知っているからです。言葉を知っていること。それが想像力のすべてです。知らないものは想像できない。言葉にならないものは想像できない。言葉の数が知識の数で、それが世界の大きさです。
今から、1000年前、ちょうど源氏物語の時代になりますが、このころには外国もなければ、宇宙もない。下手をすれば海さえ知らずに死んでいった人たちもたくさんいるわけです。その人たちの世界には、外国も宇宙も、海もなかったかもしれない。
水があります。ぼくらは飲んだり、かぶったり、泳いだり‥。でも、科学者たちは、それが酸素と水素というものの結合で、そして、それらはそのへんに浮いているというのです。がんばってもみえないのですが、それでも、科学者にはそれが見えてしまうのです。
「アメリカ」と聞くと何が浮かびますか?ホワイトハウス、摩天楼、自由の女神、星条旗、それともアメリカの国家が流れますか?メジャーリーグ、ブロードウェイ、人によって浮かぶものは様々です。私はアメリカに行ったことはありませんが、それでもいろんなものが浮かびます。それが、言葉の力、そして想像力の世界です。
想像力は人によって、異なります。それは言葉の数。そして知識。想像力のあるところまで、あなたの世界は広がります。わくわくしませんか?自分の世界を広げること。私はそれが学ぶことだと思います。
東日本大震災を目の前にして
東日本大震災が起こったとき、私のクラスの生徒は高校2年生でした。電気がとまり、放射能汚染が騒がれ、電車も満足に走らず、学校はしばらく休校になりました。
そんな状況でも、生徒の学習の指示をする、というのが私たちの仕事でした。それが正しいかどうか今でもわかりません。
まじめな生徒の中には、そんな中学習をすることに罪悪感を感じる生徒もいました。困っている人たちを助けるべきではないのかと。
一応、補足をしておきますが、当時、そう簡単にボランティアに行ける状況ではありません。電車もとまっていれば、道路の安全も確保できない。もちろん、そうしたことを全て自分でクリアして責任をとれる大人、いってしまえば、私がボランティアに行くことはできたかもしれませんが、少なくとも高校生たちがいけるような状況ではありませんでした。
私は、彼らに歯をくいしばって勉強するべきだといいました。もちろん、身近に助けられることがあるならするべきです。しかし、目の前にないとするなら、やれることは勉強しかありません。
もし、いろんな状況がクリアされて、ボランティアをしたとしても、泥をかきだしたり、炊き出しをしたり、そんなことしか彼らにはできません。もちろん、こうしたことを否定するわけではありません。そうしたこともとても大切なことだといううえで、それでも、学び続けた何年後かの彼らは、もっとすごいことができるかもしれない。命を直接救ったり、街づくりのレイアウトをしたり‥
今の彼らにできないことが将来できるかもしれない。今の君たちはできない。だから、学ぶしかない。今は悔しいけれど、この借りを返せるように学んで成長すべきだと。
書いていても詭弁のようにも感じます。でも、「できない自分」が「できる自分」になること。これが学ぶことだと思うのです。
才能って?
だとするなら、才能は、少なくとも「眠っている」ものではないのだと私は思います。「才能はない」ということではないでしょうか。学んで、学んで、成長していくこと。学びの先に才能が作られていくのだと思います。
教員をしていて、つくづくと感じますが、世界一を目指すとなれば、遺伝的な要素がないとはいえませんが、ほぼ、学んだことの中に、その人があると思います。
才能が眠っている、と考えていると、何かのきっかけで目覚めるような印象がおこります。何もしないで、「将来、○○になりたい」なんていうことが叶うわけがありません。
才能がない、と考える。だから、学ぶ。学び続ければ、できるようになる。自分の意志と行動の先に、才能が作られるはずです。
しいていうなら、才能とは、なりたい自分をイメージして、あきらめずにそこに向かい続ける力、のような気がします。
スポーツの世界では‥
サッカー日本代表の選手の生まれ月は4月、5月生まれが圧倒的に多いのだそうです。年代別の日本代表ならわからなくもないのですが、A代表ということなら、18歳もいれば(日本ではほぼないですが)30歳もいるわけで、生まれ月は関係ないはずですね。
アメリカに行くと、これが9月10月に変わるのだそうです。
わかりますか?
小さいころに、生まれ月のせいで、ちょっと成長が早く、体がおおきいだけで、優遇される、そんなことがすべてを決定するのです。
認められるということもあるでしょう。
試合に一杯出られて経験を積むということもあるでしょう。
そうしているうちに自分で得意だと自信をつけることもあるでしょう。
ありとあらゆることが、そんなことで決まってしまうのです。
最近でいえば、卓球でそれを感じます。日本のトップ選手は、親がだいたい指導ができる方で、卓球であるならば、家にその環境を作ることも可能で、そういう状況で育った選手がトップになる。
スキーやスケートだと、家そのものでは環境を整えられませんから、どれだけ、そういった場所に親がつきあってあげるかの勝負になる。
野球、サッカーということになると、いたるところで環境が整ってきて、競技人口も多くなりますし、陸上の短距離だとさすがに遺伝的要素もだいぶ入るような気がしますが、競技人口が少ないスポーツになればなるほど、経験がものをいうと思うのです。
学ぶことも同じ。素質ではなく、学校に入ったあと、どれだけ学ぶかで成長が決まる。もちろん、入試の成績、入学時の成績は、それまでの学びの結果ですから、全員が同じスタートラインにいるわけではないのですが、決してそれはあなたの素質ではなく、これまでの経験の結果であるわけです。
長い人生を考えれば、そこまでの数年間の学びは、これからの学びのありかたで、いくらでも逆転できるはずなのです。
さあ、学ぶことの意味。
あなたはどんな風に考えますか?