学びの真似び(まねび) 「学び続ける人」になるために(教育と受験と勉強法)

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読書の秋 絵本が子どもを育てる理由、そして、言語と概念の獲得の話

今週のお題「読書の秋」ということなので、子育てと読書について考えてみたいと思います。読書の効能を考えるとともに、子どもの発達段階とともに、どのような形をとっていけばいいかを考えてみたいと思います。

子育てを考えるシリーズも書き始めておりますが、今回は「読書の秋」というテーマなので、特に子育てにおける読書の効能について、考えてみたいと思います。そもそも読書とは何なのか、というあたりから、どのように子どもに本を与えていくか、ということを考えてみます。

 

 

読書の効能~主体性の問題

まず、子どもにとって、読書とはなんなのか、どういう意味を持つのか、ということについて、書いておきたいと思います。

読書の効能、とでもいうべきことです。もうちょっと、話を発展させるとどうして読書をさせることが必要なのか、ということですし、もっと誤解を恐れずに書くと、どうして本を読ませると賢い子になるのか、ということです。

まず、「頭のよさ」というようなものを「知識」と考えるなら、読書である必要はありませんよね?たとえば、DVDでもいいし、先生に直接教わってもいい。必ずしも、本を読んで知識を獲得する必要はないわけで、言われてみれば、大学受験をする高校生が必死に本を読んでいる姿は想像できません。

塾に通うか、東進のビデオか、スタディサプリか…。

ね、本じゃないんですよ。百歩譲って、それは問題集であって、解説は「先生」か「動画」に求めている。

読書の一番の効能は、「主体性」の獲得です。そういう意味では知識は二の次。まずは、これが子どものころにあるかどうかなんです。

本というメディアはありとあらゆるものの中で、「主体性」をもっとも必要とするものです。

つまり、自分が行動しなければ、動かなければ、何も話しかけてこない。

今や、情報の受け手にこびるメディアばかりですよね?テレビも、インターネットも、ゲームも、基本的に、わかりやすく、おもしろく、興味をひきつけるように作られています。

中身だけが、内容だけが、知識だけが問題なら、ドラマでも塾でもマンガでもゲームでもいいんです。わかりやすいメディアの方が内容も入りやすい。

そして、そうやって媚びるのは、それだけでなく、先生の授業も。

だから、いまや、「先生の授業がおもしろいかどうか」は大変重要な問題です。「興味を引き付けられる」授業をしないのは、先生の責任であって、生徒の問題ではないんですね。

これは、結構すごいことで、確かに先生としては、誰が聞いてもおもしろ授業を目指したいですが、すごく厳しい書き方をすれば、そもそも「ぼくは授業聞かないよ」っていう態勢の生徒でさえ、「興味をもたせる」授業を、授業者の責任として持たされてるわけです。

もっというと、「先生の授業がつまらない」「先生が興味を持たせる授業ができない」は、「原因」と課してしまいます。授業を聞かない免罪符になりうるんです。だって、親や大人がそう思ってるんだから。

愚痴はやめましょう。

読書は違います。何も話しかけないんです。何も訴えかけないんです。ただ、読者が、がんばって読んであげるしかないんです。そもそも興味を持って、ページを開いた人、それを一生懸命読み解こうとする人にだけ、はじめて語りかけてくれる、いや、読み取らせてくれるんです。

昔、金八先生(年がばれます)と、世間の先生を比べる風潮がありましたが、あれもひどい。金八先生の3年B組はどんなに深刻な問題が起こっても、どんなにクラスが荒れていても、どんなに問題児がいても、金八先生が口を開けば、生徒を話を聞く。金八先生は確かにいい話をしますが、それも聞いてくれる生徒がいてこそ。

あれはずるい。

現実は、聞かせるのが大変なんです。だって、「朝礼の校長先生の話はつまらない・意味がない」的な価値観は大人までもっていて、「先生の話を聞かないのは当然」で、「聞いてほしかったら聞く気になるようなおもしろい話をすべきだ。」とくるわけですから、現実は、「聞く気のない人たちに」「必死におもしろい話をしよう」とつとめても、「つまらないに決まってる」と思われて聞いてもらえない、ということなわけです。

そうなると、一時の予備校の先生じゃないけど、仮装のような恰好をしてでも、まずは聞かせるんだ、というくだらないことが教員のノウハウとして積み上げられていきます。

愚痴はやめましょう。

親として考えたとき、まず、話を聞く子にすること。それは、自分から知識を獲得する姿勢を身に着けさせること。わからないとすれば、自分の姿勢に問題があるんじゃないか、と考えるような子どもにすること。

それを育てるのが、読書なんです。

知識や内容ではなく、まずは、読書を通して、そんな子どもに育つはずなんですね。

 

言語の獲得は概念の獲得

次に、もうひとつ、読書の効能をあげるとすれば、言語の獲得は、概念の獲得で、そして、世界の広がりであるということです。

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 世界は誰にとっても平等なのではなく、言語の獲得=知識の獲得したところまで世界は広がる、ということです。

もうちょっと、言語によりそって話を広げておきましょう。

たとえば、目の前に精巧につくられた人形があるとします。本物そっくりです。でも、これ、チョコレートなんだ、といったら、食べますよね?たとえ、それが人でも。

目の前にステーキがあります。牛肉や豚肉なら食べますが、犬や猫なら?ワニやキリンなら?たとえば、人肉なら?

ぼくらは、言語によって、世界を見ているんです。

フランス人は肩がこらないんだそうです。理由は「肩こり」という言葉がないからです。だから、フランス人が日本に住んで、肩こりという言葉を獲得してしまうと、フランスに帰っても、肩はこり続けるんですね。

だから、「哀しい」という気持ちになるのも、「かなしい」という気持ちになるからですね。

子どもが「きれる」。なぜかを説明すれば、まずは「きれる、という言葉ができたから」です。

きれる、という言葉がなければ、子どもは「きれる」ことはできません。「怒る」か「しかる」か、が、この言葉の前に存在した言葉です。

「怒る」=つまり、何か原因があって、それに対して腹を立てる。

「しかる」=つまり、いけないことをしたので、それをただすために怒る。

そうでなければ、「爆発した」なんていう高度な比喩的表現を使うしかなかったわけです。

でも、「きれる」という言葉は、「他者に関係なく、感情を爆発させた」というイメージ。自分が使うなら、原因がなくても爆発してしまう感じ。他者に使うなら、他者が自分に関係なく突然爆発して自分がまきこまれた感じ。

コトバひとつで、他者との関係性がない世界を生きてしまうんです。

もうひとつは、「コトバがなければ、爆発するしかない」ということ。

赤ちゃんは、泣くしかないですよね?だから赤ちゃんにとって、泣くことは普通のこと、お話をすること、と親は思わなければいけない。「どうしたの?」と心配したくなりますが、何かお話したければ、赤ちゃんは泣くわけで、もちろん、何かはあったけど、心配するようなこととは限らない。これがわからないと、親は本当に苦労してしまいますよね?

でも、自分の複雑な感情を伝えるには、結構な言語能力が必要です。もし、子どもが、小学生ぐらいになって、自分の気持ちを伝える「コトバ」を獲得していなかったら…。赤ちゃんが泣くように、子どもはきれるしかありません。

だから、きれない子供にするためにも、言葉=概念の獲得は重要なんです。

コトバがあって、気持ちが生まれる。気持ちがもやもやとしたものとして存在しても、言葉がなければ表現できない。言葉があって、概念や存在や感情が、はじめて生まれる。だからこそ、子どもには多くのコトバを獲得させたいですよね。

 

まずは絵本から~モノがなければ、言語と対照できない。

というわけで、かなり難しい理論から入りましたが、ここから、2歳児と0歳児を育てる私の経験も踏まえて、具体的な読書論に入りたいと思います。

まずはなんといっても絵本です。

ここで重要なのは、「絵」です。「絵」という新しい状況を与えながら、そこにコトバを与えていく。言葉を与えながら、「絵」によって、状況や気持ちをコトバと対照させていく…。これが第一段階です。

さきほど、言葉がなければ、その気持ちが存在しないという話を書きました。

でも、当然ですが、言葉だけでは理解はできません。言葉があって、概念が理解できるというのは嘘ではなく、言葉によって私たちは世界を区分けしているのですが、モノがない世界では区分けも何も起こらないからです。

まずは、一番単純なものとして、モノ、名詞、ですね。

あるモノがあって、その名前を覚える。当たり前です。イヌ、ネコ、イス、テレビ…ただ、イスという言葉を覚えても、何がイスか、ということがわかるわけではありません。だから、イスという言葉があって、はじめてイスかどうかを分類しはじめるわけですから、言葉があってモノがある。でも、イスかどうかを決めるためには、当然、イスのようなもの、イスでないものを知らなければいけないわけですね。

というわけで、第一段階は、まず「絵」。

そこに読み聞かせ、という形になります。

つまり、絵に合わせて、単語を覚えるわけですね。

第一段階としては、さまざまなモノの名前を認識していくことになります。でも、そのモノだって、家の中にいる限り、ある程度の数に限られます。ところが、絵本の世界では、さまざまなモノが登場します。

うちの子が1歳の段階で、イヌとかネコとかと同じ感覚で、ナンヨウハギだの、キリンミノだの、ハコフグだの認識していくように、絵本の世界では、見たことのないさまざまな世界が展開します。

それは、モノの名前だけではなく、状況、たとえばケンカとか、カイモノとか、ハッピョウカイとか、あるいは、気持ち、悲しいとか、うれしいとか、しあわせとか、そういう様々な世界が展開していくわけですね。

 

「読み聞かせ」が基本になる

初期段階において、当然、字はどうでもいいものです。字という存在は「読む」という言葉でもしかしたら、認識しているかもしれませんが、「字を読む」という必要はありません。絵に合わせて、さまざまな言葉が投げかけられることが大切です。

私は、ここまで子育てをして、子どもが触れる語彙は多いほどよい、多様であるほどよいのではないか、と思うようになりました。たとえば、母親がどんなにがんばっても、母親が使う語彙には個性があります。これがババになれば、同じモノを指し示しても、語彙が変わる。そもそも、母親とババでは、生きている世界が違いますから、同じモノがある世界ではなく、違うモノを提示する可能性が増えます。本来、さまざま性別、年代、職業の人に出会った方が、獲得する語彙は豊富になるし、さまざまな世界を見ることができるはずです。

でも、現代の社会状況ではなかなかそれが許されません。だとすれば、絵本にあるさまざまな語彙、さまざまな状況、さまざまな世界は、簡単な多様な語彙の獲得に向かうものだと思います。

また、子どもが字を読むとすると、「字=意味」となってしまいますが、初期の読み聞かせには、読み手のイントネーション=感情が入ります。これも、特に感情を表す語彙の理解には重要でしょう。

感情は、対象となるモノではありません。状況や雰囲気から学んでいくものです。そのとき重要なのは、感情そのものとなる、読み手の抑揚です。この雰囲気に言葉を与えることで、感情の語彙が獲得できます。

そういったモノを覚えるためにも絵本の読み聞かせは重要です。

子どもは「覚える」。それが言語の獲得で、概念の獲得

実際に子育てをして、子どもがそうした語彙をまるまる覚えていくということがなんとなくわかりました。意味がわかっているか、対象となるモノ・行為・感情がわかっているか、ということと関わりなく、おそらく、ただコトバを覚えていくようです。

まさに先にコトバを覚えて、繰り返していくうちに、コトバが指し示すモノや感情が徐々に分類され、認識されていく…というそういう過程を経ているような気がします。

だから、まずは豊富な語彙を与えてしまうことが大事。

彼らがそれをわかっているかどうかは別のこととして、とにかく、絵本の世界といっしょにまるまるとコトバを覚えていく。それが後々、かれらの経験とつながって、彼らの世界に記録されていく、ということです。

逆の言い方をすれば、コトバがインプットされていないと、どんなに多様な経験をしても、それが彼らの世界に刻まれない、ということかもしれません。もちろん、経験と同時にコトバを獲得することはあるにせよ、先にコトバを学んでおく、ということは、彼らが経験したときに、それが彼らにインデックスされるという前提になっていると、つくづくと自分の子どもをみて思います。

たとえて言うなら、予習のようなものですね。

 

どんな本がいいのか?~行為がわかりやすく、気持ちがイメージできる絵がある本

初期段階において、読むべき本は、やはり、彼らが出会いやすいものがいいような気がします。かれらが実際に経験しそうなこと、出会いそうなものがいい。

もちろん、うちの子どもが夢中になったような魚や動物、乗り物といったモノの名前も、かれらが出会いやすいモノの一つですが、できれば、状況や行為、あるいは気持ちといったものがいいような気がします。

赤ちゃんが夢中になるといったら、まずはこのシリーズですが、やはり、まずは擬音と、見た目でわかる世界だと思います。「だるまさんが」は、絵の見た目と、擬音で、何がおこったかわかるし、「だるまさんの」は、名詞を覚えていることになりますよね。赤ちゃんの第一段階として、なぜ笑うかは、彼らの知っている世界で、でも知らないことが起こるからだと思います。 これも結構よろこびました。

ほとんど擬音。でも、なんとなく状況がわかる。まずは単語以前なのかもしれませんね。少し成長すると、行為が学べました。

 
感情も学べますよね。

これも、紹介するまでもないかもしれません。感情が絵からもわかるし、読み方もなんとなくそうなる。そういう中で少しずつ感情の語彙を獲得するんだと思います。

 

現在は、遊ぶ本と想像の世界と字を読む本へ

このぐらいになってくると、なんでも理解できるようになってきました。このあたりに貢献したと思われるのは、完全に保育園。保育園で読んだ本。保育園で読んだフレーズを家で繰り返してみたいよう。

まずは、「おおかみとしちひきのこやぎ」から始まって…

今はこれを親やじじばばの前で自分が読んであげるのがお気に入り。

今、彼女がはまっているのは、前にも紹介した、遊ぶ本。

話が長い本にもだいぶ興味を広げていきました。

そして、最近は想像の世界の本。お姫様が大好きなので、白雪夢、シンデレラ、人魚姫…というところに 手を広げています。

親としては、そろそろ字に関心をもってくれないかなあ、とたくらんでいて、何か探そうかな、と思い始めているところ。でも、様子を見ていると、字、そのものを読むのはもう少し先のようです。