うちの子育てについて考えていたら、いつの間にか「早期教育」が大きなテーマになってきました。というわけで、今日は「習い事」について考えていきたいと思います。
子育てについて書いていたら、いつの間にか「早期教育」が大きなテーマになってきたことを自覚してきました。特に「習い事」をどうするか、というのは大きな問題ではないですか?
親は何をしなければいけないのか。
何をした方がいいのか。
こうしたことって、まず「普通」とか「常識」が大きくずれてしまっているので、何かを語ったとしても、そもそもの前提が違っているとアドバイスにならないんですよね。また、そもそもの「目的」が違っているとここでも話がずれていきます。たとえば、「学力」というのは何を指すのか。もちろん、一定の学校の成績や受験の結果であることは間違いないんですが、とにかく模試や入試の成績が高ければよいということなのか、一般的な地頭的なよさもふくんでいるのか、などは人によって認識がずれています。これも話が混乱する原因ですね。
できるだけ、このあたりの誤解のないように、今、自分が考えていることを説明していきたいと思います。
- 乳幼児教育・早期教育は確かに有効!
- 早期教育しないといけないのか?よい高校、よい大学に合格することを目的とするなら…
- 非認知的能力が重要!非認知的能力って何?
- 弟と妹のいいところと悪いところ
- 「非認知的能力」なら、勉強でなくスポーツや音楽でもいいのではないか?
- 親の負担を考える。預けるのが楽か?自分で見るのが楽か?
- 「学び」は「真似び」。親が重要だし、親は逃げられないけど、何かをしないといけないわけでもない…。
乳幼児教育・早期教育は確かに有効!
まず、ここまで書いてきましたが、私は大前提として、早期教育は非常に意味を持つと思っています。
なぜなら、遺伝や才能というようなものよりも、そのあとの経験がすべてだと思うからです。スポーツにせよ、音楽にせよ、あるいは学力にせよ、とにかく経験するかしないか。
だから、しっかりと経験の場を与えるためには、早くから取り組ませるというのは大変有効だと思います。
そして、個人的な主観になりますが、そのことは、周囲の人もふくめて、自信を持たせることになる。やっぱり「できる」と思ったり、「すごい」と思ったりすれば、どんどん意欲的に取り組む確率があがり、逆に「苦手」と思い込めば、どんどん経験から遠ざかる可能性が高いのではないかと思います。
だとすれば、他人と比べられる前に、いろいろなものができているということがかなり重要です。
無意識の偶然みたいなものの積み重ねを、人間は「才能」のように感じて、自分をより「できる」ことだけ取り組むようにしていくわけですから、早期教育によって、そのあたりを意図的にコントロールできれば、こんなにいいことはありません。
でも、これはあくまでも「続ける」前提の話。
乳幼児が、今、やらせているものをずっと続けるとは限りませんね。水泳とかピアノとか。オリンピック選手にしたい、と思っている親とかプロ野球選手に絶対する、とか思っている親がそれほど多いとも思えないし。
だからこそ、そんなに焦らなくても…ってなるんですよね。
我が子が東大入ったらそれはそれでうれしいけど、何も東大でなくても、そこそこ勉強できてそこそこのところ行ってくれればね、みたいなのが親の心情じゃないでしょうか。実際、私もそうだし。
早期教育しないといけないのか?よい高校、よい大学に合格することを目的とするなら…
さて、こんな感じで書かれれば、ある種の才能をつけたいとするなら、早期教育は「やるしかない」ですよね?
逆に、「何もそこまで」と思えばやらない。
たとえば、小さいころから本をたくさん読ませて、字や数字を教えて、ワークのようなものも始めるのでしょうか。
もっと進めば、塾に入れるという発想になります。うちも、英語とドラキッズをやっていますから、「やっぱりお金をかけないとだめだよね…」ということになりますよね。
いやいや、そんなことはないと思います。
まず、そもそも、入試的、模試的な学力でいうなら、このあとのリンク先を見てもらってもわかりますが、どんなに早期教育をやっても、たいして変わらなくなります。
保育園で、結構、やりこむところあるじゃないですか?「小学校入っちゃうとたいしてかわらなくなるよ」って聞きません?その通りです。
スポーツだってそうで、結局は、早期から始めた子がずっと続けて真剣にやられちゃうと、後から始めてもなかなか勝てないんですけど、途中でやめてくれてれば、後から初めて今までやっている方が勝ちますよね。普通。
ベビースイミングから小学校低学年まで、ものすごい水泳やって、低学年で4泳法きちんと泳げるようになってやめた子と、中学校から本格的に水泳始めた子を比べたら、高3最後の大会ぐらいになったら、間違いなく後者が勝ちます。
勉強も同じですよね。小学校入るまで塾に通って、あとはまったく塾や通信教育などにお金をかけなかった家庭と、中学校3年間塾に通ってスパルタで鍛えた家庭があったなら、後者の方が勝ちそうじゃないですか?
わからないですか?じゃあ、もうちょっとわかりやすく書くと、1年間しか塾に行けないと仮定して、それ以外の家庭学習の取り組みとか、学校の授業の受け方がまったく同じなら、中学入学直後にしますか?受験直前にしますか?
あるいは、塾とかじゃなくて、家庭学習を死ぬほどがんばるのが2週間だけだとしたときに、入学直後の2週間にしますか?試験直前の2週間にしますか?
ね、わかってきたでしょう?
目的が「試験を突破する」という程度の「学力向上」であるなら、焦る必要はなくて、直前にやればいいんです。お金はとっといたほうがいい。
ところが、違う可能性が見えてきません?
もしかしたら、スタートにお金をかけたら、「その後」が違うんじゃないか。入学直後に2週間頑張らせたら、やり方覚えて、自信をつけて、できると思って、「勉強する子」として、「違う3年間」を送ってくれるんじゃないかって。
そうなんです。
早期教育の目的は、「結果」ではなくて、「過程」。
まず、このことがわからないと、話がかみ合わなくなっていくんですね。
非認知的能力が重要!非認知的能力って何?
こういうことを「非認知的能力」なんて呼びます。がんばって勉強するとか、継続して努力するとか、がまんするとか、集中するとか、そういう力ですね。
すでに、このブログでは、「入試の結果」が「出口の結果」と大きく関係しないことを紹介しました。うちの学校のデータでは、「定期試験の結果」と「模試の結果」では、高校3年間常に、「定期試験の結果」が、高校最後、高3秋の模試結果に強く相関するんです。
で、中学校のいわゆる内申点の高い子の方が、高校に来てからの学校の成績が高いんです。
これが全部因果関係で相関するなら、
大学受験の結果がいいためには→定期試験の結果がよいことが重要
定期試験の結果をよくするには→入学前の学校の成績が重要
ということになるんですが、ここが「原因」かと言われれば、そうではなく、ある同じ因子がすべての結果を結びつけている可能性がありますね。
それが、「非認知的能力」です。
「すくすく子育て」のページがわかりやすいので、ぜひ見てください。
というわけで、早期教育の中で重要なのは、この「非認知能力」ということになってくるんですね。
このページに実験の話がありますが、
将来の収入や職業、あるいは学歴が、乳幼児の教育を受けたかどうかと相関がある。ところがIQ自体は、かなり早い段階で有意な差がなくなっている。
つまり、学力以外のものを、この教育を通じて獲得したのではないか。
こういわれてくると、なんとなく理解できてくるところがある。
スポーツとか音楽とかを通じて、努力する大切さを学ばせたい。人の話を聞く姿勢を身につけさせたい。我慢を覚えさせたい。などなど。
勉強なんかできなくても、生き抜く力が大事。いろんな人とコミュニケーションとったり、あきらめずにがんばったり、などなど。
なんかそんな感じ。
そう考えていくと、ちょっとわかってきますよね。どうやって身につけていくか、その過程が大事なんだって。
弟と妹のいいところと悪いところ
始めるのがはやく、できるようになると自信を持つ。
こんな話は何回か進めてきました。
だから、弟や妹は有利です。お兄ちゃんやお姉ちゃんがやっていることを、たいていの場合、お兄ちゃんやお姉ちゃんよりも早く目にして、取組み、チャレンジしはじめる。
しかもたいてい、自分はできると思って。
そうなれば、得意になる可能性はあがりますね。たいていは親や指導者も比較するでしょう。お兄ちゃんがこの子のときには、こんなにはできなかった。この子の方ができるんじゃないか。なんていう感じです。
だから、スポーツ選手は、弟、妹の方が成績がいいことが多いんですよね。
ところが、です。こんな成績がいい選手ばかりじゃないですよね。弟、妹の方がうまくいかないケースも多々あるわけで。
これって思うんですけど、「才能がある」って勘違いした代償として、努力を怠るケースなんじゃないかって。
お兄ちゃん、お姉ちゃんの方が、まじめにコツコツ取り組む可能性が高い。自分はやらなくてもできてしまう。これが「非認知的能力」を失っている要因なんじゃないかと思うんですね。
逆に、できるお兄ちゃんやお姉ちゃんにいつも比べられて、だめになる弟・妹のケースもありますよね。これも、「才能」や「結果」の問題にされていることが多い気がします。
弟・妹は、お兄ちゃん・お姉ちゃんよりできれば、「才能」で、努力の価値を理解しないケースが起こる。
逆に、お兄ちゃん・お姉ちゃんが、できすぎると、比べられて、やる気を失って努力をしなくなったり、自分はやってもできないと才能のせいにしたりする。
不利ですね。
でもね、条件として、「早期教育」があるわけですから、あとは「努力」という非認知的能力で見てあげることができれば、弟・妹はすごい才能を発揮するわけですね。そりゃ有利。世界で活躍するならね。
というわけで、うちも弟なんですが、結果じゃなくて、過程で見るように気を付けたいと思います。
「非認知的能力」なら、勉強でなくスポーツや音楽でもいいのではないか?
さて、次の話です。
そうなってくると、勉強じゃなくてもいいって感じがしません?さっきの「すくすく子育て」でも「遊び」で主体的に学ぶっていう先生もいましたし。
このへんが、子どもは「遊ぶ」ことが大事っていう根拠ですね。しかも、勉強そのものでなく「非認知的能力」が大事なんでしょ?じゃあ、勉強じゃなくていい。好きなことをやらせた方がよくないかっていう話になりますよね?
だいたい、特に乳幼児のときに、「勉強」っていってもねえ。
これ、難しいですね。どう考えますか?どうすればいいと思います。
私はふたつの視点をかかげます。
ひとつは、乳幼児であれば、「遊び」でいいんだということ。でも、ここには、「言葉」と「分類」が大事。要するに、世界を分類するための道具と方法が大事だということ。だから、スポーツみたいなものだけでは、ダメですね。
スポーツも大事なんですけど。やっぱり、言葉を覚える、世界を区分けする方法を覚えないと。
だから、読書とか、読み聞かせとか、あるいは百科事典的なものとか、そういうのは必須。
いまや、スポーツ選手だって、言語化して、自分の状態や体の動きを把握できないとトップ選手になれないレベルにきはじめていますから。
そして、もうひとつですが、がんばるとか、繰り返してできるようにするとかそういうことが大事。だから、乳幼児のころは、当然、遊びでいいんですけど、遊びの中で、あきらめずにチャレンジすることとか順番待ちのがまんするとかそういうのがないと。
得てして、「遊び」が学びだというと、子どもが楽しいことだけやる、みたいなことになりますよね?
まさにスポーツ選手が試合を楽しむ、とかいってることに似てます。楽しむためにどれだけ努力してツライ思いをしているか。試合そのものだって、がまんじゃないですか?
あの感覚がある中で「遊び」とか「楽しむ」はいいんですけど、つらかったらやめちゃえ的な感じでこれを解釈していると困りますね。
親の負担を考える。預けるのが楽か?自分で見るのが楽か?
そんなことを考えて見ると、乳幼児期の教育の重要性はわかりますが、だからといって、「早期教育」として、何かに通わせるのがいいかというと、そういうわけではない、というのもわかってきます。
だって、所詮、遊びの中で、たくさんの言葉やたくさんのことを一緒にしていけばいいだけなんですから。そこにちょっとした意図を持って、接すればいい。
これが、「非認知的能力」に特化していくとなれば、結果ではなく、過程であるということ。だから、できたかできないか、とか、覚えたか覚えてないかではなく、どのように取り組んでいるか、その姿勢を大事にして、そこを認めてあげればいいだけの話。
でも、難しいですよね。
だから、いざとなったら、どっかに任してしまえばいいわけです。プロがいるんだから。
でも任せなくても大丈夫。だって、やってることほめてあげるだけなら、誰でもできるんだから。
どんなに預けたって、ひけめを感じる必要はない。どうせ、夜は一緒にいるんだから。そんなの気にしなくていいと思います。
「学び」は「真似び」。親が重要だし、親は逃げられないけど、何かをしないといけないわけでもない…。
そう考えて見ると、しょせん、親は子どもと一緒にいるんだから、子どもは親の真似をするんです。言葉も行動もね。
それを全部見せてあげればいいだけ。
前に新聞のところで書きましたが、
親がスマホいじれば、子どもはスマホをいじりたがるし、親が字を読んでいれば、子どもは字を読む。
親が漫画を読んでいれば、子どもは漫画を読むし、名作を読めば、子どもは名作を読む。
だから、子どもに何かをやらせるっていう風に考えるんじゃなくて、子どもにやらせたいことを子どもの前でやってみせればいいんです。
「雨ニモ負ケズ」を覚えさせるって言ってますが、やってることはこっちが勝手に声出して読むだけ。全然興味を持っているように見えなくても、違うことやって遊んでいても、どうも聞いてるんですよね。
で、真似するんです。
ていう感じです。
でも、ここに来て、今後、何を習わせるか、考えちゃうんですよね。だって、どんどん大人のことを与えてやりたいけど、与えようとすると「勉強」のにおいがしだすんですよね。習い事だと。
だから、なんか親がプレッシャーかかるような言葉が増えてくるんですよね。まずは親が楽しまないといけないのに。
さあ、どうなるんだろう?このあたりの話は気が向いたら、続きを書きます。