今日は、時代の移り変わりとともに変化したメディアや道具が教育にどういう影響を与えたかを考えます。「電話」と他者性の話です。
このブログは、「学びの真似び」と「国語の真似び」の二本立てですすめております。
学びの真似びは学習方法や学習計画、そして入試情報や教育問題について。
国語の真似びは国語の学習方法について。
なんとなく入り口をわけた方が、あとで整理しやすいだろうな、と思って進めてきました。
で、「学びの真似び」でも、書かなければいけないことがたくさんありまして、当面でいうと、マインドマップなどのノート術、記憶術の続き、それから科目別の学習方法や細かい分野別の学習方法などなど…
とはいえ、書こうと思うと結構重たくて、なかなか一気に書けないというか、下書きでとまっていたりとかしております。
となった時に、話がとまってしまうのと、自分自身も子育てをしているので、「まだ受験は先だけど、何をやっておけばいいのか」なんていう雑談めいたことを書けるシリーズを作ってしまえばいいかなと思って、このシリーズを始めることにしました。
暇なときにさらっと書けるシリーズです。
気楽におつきあいいただくとともに、子供たちが育つ環境を考えていけたらな、と思います。今日は「家の電話」です。
昔の電話って?
最近の携帯電話、スマートフォンの登場であっという間に駆逐されてしまった家の電話。家の電話が携帯番号という人もめずらしくないし、私みたいに固定電話ひいてるけど、ほとんどかかってこない、という人も多いと思います。
うちの実家にいたっては、「かかってくるのはほとんど勧誘だから出ない」っていうことになり、なんのために電話があるのか不思議になってしまいます。
今のこどもたちに昔の電話っていうものが果たしてわかるかどうか?
- 基本的に一家に一台。
- 誰かが使っていたら、かからない。ある程度するとキャッチフォンという、通話中に通話をとる機能がつく。
- 最初は、コードがついていた。だから、電話は電話のあるところでする。その後、コードレス電話が普及し、部屋に持ち込めるようになる。
- 「ダイヤルを回して」電話をかける
というようなものでした。これが昭和を生きた私たちの電話です。
今の電話は…
それがあっという間に、携帯電話になってしまいました。もちろん、この間には、ポケットベルというものがはさまれておりますが、これで駆逐されたのは、駅の伝言板と、伝言ダイヤルでした。
まあ、さておき、携帯電話になってさっきの電話の形はどう変わったのか…です。
- 電話は一人一台になった。だから、家の電話には誰もかけない。
- 話し中なのはかける相手であって、自分はいつでもかけられる。着信記録は残るから、後からかけてくれるという期待がもてる。キャッチホン機能は一応あるのかな?でもなくても着信が残る。
- 当然、いつでもどこでもかけられる。
- 番号を覚えることもなく、登録しておけば押すだけ。そのことで着信履歴を残せる。
という感じでしょう。
要するに
- 一人一台。その人しか使わない。
- どこでも使える。
- いつでも使える。
- その「いつでも」は、着信を残して、返信するよね、という感じだから、本当に「いつでも」。
こんな風に変わったんです。このことで、いったい何が変わったのか…ということですね。
失われたもの
こんなことから、子供の育ちを考えてみたいわけです。
個人的には、大きな影響をあたえたものは、電話、駄菓子屋、テレビ、新聞ではないかと思っておりまして、第一回はそれで電話だったんですね。
さて、こどもから、何がなくなったのか?
親の知り合い、仕事の関係などを知り、伝達する機会がなくなる
「もしもし〇〇です。父は今外出しております。何かお伝えしましょうか?」
という定型の電話の応えが今はもうない、ということです。
こどもたちは電話に出ないのではないでしょうか。
そして、私たちは、その電話の内容を正確に家族に伝えるためにメモをとったり覚えたりしていたわけです。
それを正確に伝える。
それがちゃんとできなくて怒られる経験もありました。
話をきちんと聞いて、ポイントをまとめ、相手に誤解ないよう伝える。
今から15年前ぐらいだったら、まだ、これがあったんです。漢字検定協会がやっていた文章能力検定に、こういった出題が必ずありました。
そして、これは、家族の家の外での人間関係や仕事のことを少しでも垣間見ることであり、そして、その人たちに自分が知られる経験でもあったわけです。
こうした機会を今のこどもたちは決定的に失っています。
相手先の状況を推測し、対応する機会がなくなる
そして、今度はかける側です。
ぼくらは、電話をかけたからといって、誰か出るかわからないのが普通でした。
だから、電話をかけるのは勇気がいるんですよね。
たとえば、気になる女の子に電話して遊びに行く約束をとりつけたいとします。
相手が常に「彼女」であるような連中は「2回鳴らして切ったらぼくだから、そのあと出て」みたいなうらやましい暗号やりとりがあるんですが、もてないぼくらはとにかくまずかけるしかないわけです。
さて、誰が出るか。
お父さんか、お母さんか、きょうだいか。
その時、なんて自己紹介すればいいのか。「〇〇でお世話になっている」「××で一緒の…」などなど。
そして、その時、どう思われるか。たとえば夜遅くにかけたら、失礼なやつと思われるかもしれない。食事中だったら、食事中に電話をかけてくるやつ、と思われるかもしれない。お風呂に入っていたら、お風呂にはいっているから今はでられないといわれるかもしれない…
ありとあらゆる想定があるわけです。
こんなに、面倒くさいことはありません。彼女にどう思われるかだけでなく、その家族にどう思われるかまで、想像していくわけですね。
もちろん、こういうのをドンとやってしまえるやつもいて、そういう奴は誰が出ても何が起こってもなんとかのりきってしまう対応力をもっているやつで、それはそれで尊敬だったりするわけです。
ちなみに私の場合は、8時55分ぐらいが狙い目という法則にたどりつきました。7時台は、食事の可能性からお風呂の可能性。テレビの最中は印象がよくない。9時を過ぎていくと「夜遅くに失礼」の可能性があがる。だから、テレビが切れて、まだ次の行動にうつっていないタイミング…です。
もちろん、なかよくなってしまえば、あらかじめ約束ができて、家族が寝静まってから…なんていう展開もあるわけですが、それまでは大変なわけですね。
自分の友人関係が家族に知られる機会がなくなる
そして、今、最後に深夜、なんて書きましたが、電話は家にひとつ、誰かが使っていれば、ほかの誰かは使えないわけです。
たいてい母親は長電話をしていて、イライラするわけです。「かかってくるはずなのに、つかえない!」という感じ。
でも、これは逆もまたありまして、自分が電話をかけていれば、長電話をしようとした母親にすべてバレるわけですね。
特に初期は、コードがつながっているわけですから、誰が使っているかは様子を見に来ればすぐわかる。
それはたいてい、廊下か玄関か居間か、みんなが電話を使いやすいところなわけで、どんな感じでしゃべっているか全部聞かれてしまうわけです。自分の声だけですけど。
つまり、自分の行動や人間関係がこういう意味でもつつぬけになる。
下手すれば、デートに誘った、彼女ができた、なんてあっという間にバレるわけです。「彼女はいないらしいけど、遊びに行く女の子がいないわけではないみたい」なんてことが平気で親や家族に筒抜けになったんですね。
こちらとしても、それを見越して、電話戦術を考える必要があったわけです。
もちろん、完全なリスク対応としては公衆電話を使う、というのもあるんですが、これだって、なんとなく親にバレるんですよね。いなくなるんですから。
失われた「知らないけど知っている他者」
こんなものが、携帯電話によって、失われてしまったわけです。
昭和の時代にこどもだったわたしたちには、「知らないけど知っている」「知らない人に知られている」ことが普通だったんですね。
緩衝地帯みたいなもので、本当に知らない人にぶつかる前に、「知らないけどなんとなく知っている人」「知らない人になんとなく知られていて、はじめて会ったのになぜか情報がある」みたいなことがあったわけです。
そういう緩衝地帯で、「知らない人に知ってもらう」「知らない人を知ろうとする」「知らない人に説明する」そんな練習をしながら、本当に知らない人の世界に入る準備がこどものうちにできていたわけです。
ところが、携帯電話の登場で、こどもが電話に出るのは「知っている人だけ」になってしまいました。小学生ぐらいで安全上の問題で持たせたりしたら、もう電話はかかってこなくなりますね。
小学生の間だけでも、家から家に電話をかけることができればいいんですが…
相手が携帯電話だったら意味がないですよね。
ていうか、そもそもメールとかラインとかSNSのメッセージだったりして、電話なんてかけないよ、ということなんですよね。
できれば思春期の中学生だって、自分が味わった苦労をさせてみたいものですが、たぶんだめでしょうね。
親がこどものプライベートを知っている必要があるのか、という問題はあるにせよ、それでも、何もかも知らないところで親がまったく名前も声も知らない人間関係ができていくというのは、はたしてどうなのか?
他者でない他者、他者と出会う場所ってこどものころは大事だと思うんですが、いったいこれはどうすればいいのか?と思ってしまいます。
家の固定電話を中学校までは使わせる、っていう決まりでもできるといい気がします。絶対むりですけど。
こどもに他者と出会わせる場。
なんとか工夫したいものです。