いよいよ共通テストの記述問題が見送りとなることが確実になりました。今日は、あの記述問題を作った誰かにメッセージを送ります。
共通テストの記述問題の見送りとなることが確実になりました。
思うことはいろいろありますが、今日は一生懸命ここまで準備して、記述問題を仕上げてくださった、作問担当者をはじめとする関係者へのメッセージです。
ここから書くことは、共通テストに記述を入れるべきかそうでないか、ということとは関係なく、ただただ作問をされた方々にメッセージを送りたいだけです。
だから、もしかしたら、共通テストの記述がなくなって、お喜びになっている方は読まない方がいいかもしれません。私は決して、見送りになったことそのものを嘆いているのでなく、ここまで努力された方にメッセージを送りたいだけなのですが、きっと見送りを喜んでいる方には、その気持ちが伝わらないような気がするからです。
私は、国語教師として、また私立にいる関係で、実際に入試問題を作問し、採点し、そして、生徒を育てている立場で、あの記述問題がいかに難しい仕事であったかがわかるので、ただただねぎらいたい。そして、それが理不尽に消えていくことに対して、ただただ評価している人がいることを伝えたいだけなので。
きっと、「ほら、理不尽とか書いてるじゃないか」とか言うでしょ?
だから、気になる人は読まないでください。まあね、作ってくださった人が読んでくださるかはわからないですけどね。
あなたの仕事は素晴らしかった!50万人が受ける記述問題を考える。
最初に書きます。
あなた方の仕事は素晴らしかった。純粋に尊敬します。そして、参考にします。
だって、作問をするあなた方が一番理解していたはずです。
共通テストという50万人もの受験生が、受ける記述問題を、できるだけブレがないように採点できるようにすることがどれだけ難しいか。
記述でできるだけ、採点をぶれないようにする最善の手は、「抜き出し」です。そうすれば、漢字間違い、抜き出し間違いだけをどうすれば決めればいい。それだって、ちょっと間違えば×にすれば、だいたい解決。それだって、見逃すかどうかと言われれば、それは採点ミスは確かに0ではないですね。
でも、そうしてしまえば、記述問題を出す意味がない。〇か×かを聞きたいなら、よほど今のようなマーク式の方がまし。
つまり、記述を出す以上、〇か×かになるような採点では意味がないわけですよね。
これは、大変厳しいミッションです。
しかも、50万人となれば、1人が採点するわけにはいかず、採点者がものすごい数になりながら、ずれない。でも、記述ならではの、〇か×かではない採点をする必要があるわけです。
この厳しいミッションをどう解決するのかと思っていました。
モデル問題から試行調査で見せてくれた方向性
実際に、できあがった問題は意外なものでした。最初に予想した、いわゆる評論の中での説明的な記述、要約的な記述、あるいは小説題での解釈的な記述でなく、日常生活の中での議論、討論、資料読み取りなどをベースにしたものでした。
正直言ってはじめて問題をみたときは驚きました。国語の問題としてはたしてこれでいいのかとも思いました。国語の問題がもし、この方向に行くなら、今後、国語教育はどうなってしまうのかと思いました。
でも、実際に問題をやってみて、あるいは生徒がやっている様子を見て、少しずつ理解ができました。
生徒には、実はこういう力がかけているのだと。
一見、解答がひとつに決まるように、語の抜き出しのような、正解を選ぶような問題に見えて、文章自体は作らなければいけない。
要約ができているのに、文章の言っていることがわからないという生徒。どんな記述問題が出ても本文の一部をそのまま書き写そうとする生徒。小論文の問題には常に、賛成か反対かを書いて、相手をやっつけることを、どんな問題に対してもする生徒。どうしてそんなことが起こるかといえば、国語という科目が入試のシステムの中で、答えを探すゲームに成り下がっていて、質問に答えるという、問われたことに答えるという当たり前のことを生徒はしていない。
だから、一見答えは決まっているように見えて、答えられない。
こうした問題を通じて、現代の高校生が何をしていないか、どんな力が欠けているのか、どうして訳のわからないことが起こるのか。こうしたことが、この問題を通じて、よりクリアに鮮明に、原因としてわかりました。
50万人の試験を、できるだけずれないように、しかも、段階をつけて、採点をする。そのメッセージを通じて、生徒にどんな力を要求するか、あるいは僕ら教員にどう見直すべきかが伝わった気がします。
どんなにいい仕事も、理不尽につぶされることがある…
これだけいい仕事をしても、「記述の採点は必ずぶれる」というそもそも論で、確かにそれは正論かもしれないけれど、そういうくだらない話でつぶされていく。
一生懸命、この問題を作ったみなさんからすればやりきれないことでしょう。「だったら最初にいえよ」という話です。最初からわかっている話です。
どんなに正論でも、ずっとだまっておいて、今更、声高に叫んで中止にする。こんなの教育を考えているというより、ただの「政治」でしょう。
ちょうど、国立競技場が完成しましたが、ちゃんとしたコンペで選んだ案をつぶして、政治的に違う決め方をするひどいやり方を思い出しました。
確かに今の案の方がいいかもしれませんが、あんなことをコンペとしてやってしまう日本という国は、建築家の方々にどう見えたんでしょうか。国民にはいいのかもしれないけれど。
なんだかまったく同じことを見ているようで、ちょうど、新しい国立ができるころに、入試制度も覆すというのは象徴的です。
センターがいい、なんてみんな言ってましたっけ?いや、もしかしたら作っていたみなさんも、本当にいいかどうかではなかったかもしれません。
でも、限られた条件で、採点と記述という難しいバランスをあの問題はしっかりとっていたし、少なくとも私は、あの問題からメッセージを読み取りました。だから、東大のような国語の記述問題についても、一橋の要約についても、慶応の小論文についても、いや、多くの大学の小論文入試についても、きっとあの問題で問おうとしていた力からなんとかしていく事が重要だと学び、普段の国語の授業でも意識していこうと思います。
センターはあれでいい。二次で問えばいい。確かに正論です。でも、二次試験がない大学も多いし、そもそも私立の大半はマークのみです。センターとは関係ないかもしれないけれど、私立大学は、受験生の対策を考えて、「センターと同じような問題です」と宣伝している大学もたくさんあります。
本当は、採点を出願した大学でやればよかっただけの話で、大学ごとに多少採点基準が変わったとしても、その大学が記述を反映したければがんばってやればよかっただけの話。A大学とB大学と同じ受験生が出願したら、それぞれで採点すればよかっただけの話。A大学とB大学でずれても、それぞれの判定ではずれないんだから。
そうならなかったのは、作問をしたみなさんの責任ではなく、政治の責任だと思います。
どんなに素晴らしい仕事をしても、政治はそれを台無しにする。そして、それをさも正答であるかのように文法を整える。
だいたい、作問を命じられたみなさんだって、本当は違う問題をつくりたかったかもしれないし、マークでいいと思ったのかもしれない。でも、与えられた条件の中で、ベストの仕事をされたと思います。だって、とても難しい条件でしたが、私はこれならできるかも…と思いましたし。
まあ、政治の方針が変われば、方針に口を出す権利のない人たちは、ただそれにしたがって、仕事が無になっていくだけです。
でも、それは本当に教育のためになったのか?一石を投じる可能性があったのに、それを、もともとの間違いであるかのように論じていく。
繰り返しますが、少なくとも作問したみなさんの責任ではありません。
そして、たぶん少数ですけど、メッセージを受け取った人もいるということを知っていただいて、その仕事のすばらしさを誇りに思ってもらえればと思います。
言い訳のようですが、決して記述が採点含めて、実行すべきだったと書いているわけではありません。しかし、さも「記述はいらない」「改革はいらない」という論調に支配されている現状には違和感があることは事実です。
まあ、書いている以上、どうとられてもいいんですけどね。
東大受けるなら、慶応受けるなら、センターに記述なんかなくても、それはしっかり問われているからいいんです。
きっと、みんな、東大とか慶応とかしっかり記述でみてくれる大学に進学する前提なんだろうし、そうでない大学にはもしかしたら、そんな力は必要ないのかもしれないですね。
そうです。それでも、中学高校では必要な力をつけなくてはいけないんです。入試とは別の話なんだと思うことが大事だと認識しました。